火縄銃

出典: Jinkawiki

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火縄銃

日本への鉄砲伝来は1543年の種子島より始まるとされてきた。しかし、近年では、東南アジアに広まっていた火器が1543年前後に倭寇勢力により日本の複数の地域に持ち込まれ、伝来当初は猟銃として用いられていたとする説も提示されている。だが、欧米の研究家の間では、欧州の瞬発式火縄銃が日本に伝えられて改良発展したものが、逆に東南アジアに伝えられ、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったものとする説もある。 戦国時代以降、日本では近江の国友、同じく日野、紀州の根来、和泉の堺が鉄砲の主要生産地として栄えた。根来のみは織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの影響で桃山期以降衰退したが、国友・日野・堺はその後も鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇った。 また、築城技術でも火縄銃の性能を活かした横矢掛かりなどが発達し、赤穂城などに応用された。 日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃から進歩しなかった理由として、江戸時代に入って徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされたことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説、フリントロック式は火縄式に比べ強力なバネが装着されており、撃鉄作動時の衝撃が大きく、引金を引いてから一瞬遅れて装薬に着火する機構のため銃身がぶれ、火縄銃に比べ命中率が悪く「一発必中」を好む日本人から嫌われたらしいことのほかに、日本では良質の燧石が産出せず大量生産ができなかったこと、平穏な時代が長く続き連射性で勝る実戦的な銃自体がそれほど必要とされなかったこと、またおそらくはすべての武術と同じく鉄炮術も一種の競技的な要素を含んで流派形式で継承されたため、その結果必然的に器具類の改変は避けられた、という要素も大きく、幕末に実戦を前提として新式銃が輸入されるまでほとんどの銃器が火縄式のままだった。また幕末まで農具として農民へ売買され所有されていた。 明治維新以降は洋式銃や村田銃等の新式銃に圧され、国友を初めとする伝統的な火縄銃職人集団共々、日本からは火縄銃は急速に廃れていった。しかし、マタギなどの民間の狩猟家の間では軍払い下げの村田銃が普及する昭和初期までは依然中古品の火縄銃に大きな需要があり、火縄銃職人の一部も大正から昭和初期ごろまで細々と火縄銃の製造を続けていたと言われている。


火縄銃の威力

火縄銃の重さは16~18kgで、この銃身からこの砲弾が飛び出した威力は、飛距離は2キロメートル(放物線)に及ぶ。射程距離は、約100メートルであり、練習をすれば命中率がかなり高くなる。そして威力なのだが、簡潔に言うと、鎧を着ていても簡単に貫通し、胴体に命中すれば撃たれた兵はまず助からないであろう。


発砲のしくみ

銃身の太さに合わせた量の火薬を銃身の先から入れ、鉛の玉を入れる。そして、カルカと呼ばれる棒で火薬と玉を銃身の底に押し込み、火皿と呼ばれる部分に口薬(点火火薬)を入れる。火縄を火挟みに付け、引き金を引くと火縄が火皿の上に落ち、口薬に引火した火が銃身の火薬に点火し、発砲される。

火薬は黒色火薬を使用し銃身へ入れる火薬は粒子が粗く、口薬(点火火薬)は細かくすり潰して使用する。1発の量は銃身の口径にもよるが、10~15g位になる。


参考文献

・鉄砲伝来の日本史 火縄銃からライフル銃まで   著者 宇田川 武久

・日本の火縄銃   著者 須川 薫雄

                                 (BAY)


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