王政復古

出典: Jinkawiki

王政復古とは、かつて君主によって統治されていた国家において、一度はクーデターや内戦などによって廃止された君主制が、何等かの理由によって復活することである。政体が帝国の場合は帝政復古とも言う。

王政復古は2類型に分類できる。1つ目は、王家は制度上存在するものの立憲君主制や豪族支配等により君権が抑圧された状態から、君主親政が復活するケースである。例として、日本の明治維新(1868年の徳川家の支配からの王政復古)、ネパール(1951年ラナ家の支配からの王政復古、2005年の立憲君主制からの王政復古)がある。2つ目は、共和制の状態から君主制が復活するケースである。イギリス(1660年)、スペイン(1975年フランコ独裁からの王制復古)、カンボジア(1993年内戦の収拾と民主化による王制復古)等がある。

君主制が復活しても、憲法を制定するなど立憲君主制、民主政を採用した場合は「王制復古」と呼ばれる場合がある。

日本の例を詳しく見ていくと、

●建武の新政


1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕を成し遂げ、建武の新政を開始した。建武の新政は天皇親政の復活であり、この点では明治維新のときの王政復古よりもより純粋な意味での王政復古であるといえる。

●王政復古の大号令・明治維新


慶応3年12月9日、明治天皇の名により天皇親政を宣言した。王政復古の大号令とも呼ばれる。内容は(1)摂関制度(摂政・関白)の廃止(2)(慶喜の)将軍職辞職を勅許(3)江戸幕府の廃止(4)(新たに)総裁、議定、参与の三職をおくというもので、江戸幕府の廃絶と、天皇による新政府の成立を宣言するものであった。明治天皇は満15歳と若く、政治の実権は岩倉具視ら一部の公家と薩摩藩・長州藩が掌握していたが、形式上は天皇親政を宣言するものであった。

【大政奉還の上奏文】  臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慚懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上  慶喜

【王政復古の大号令】  徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。

将軍慶喜の大政奉還により、政権が天皇に移管された(将軍職の辞表を出したのは10日後の10月24日)。しかし大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の強硬な幕府権力奪還の動きもあり、次の新政権に慶喜が擁立される可能性が高かっのだ。それを完全に排除するために出されたのが「王政復古の大号令」である。

 11月末、薩摩藩主島津忠義(島津久光は忠義の父)の率いる約3千の兵が上京。長州藩兵約2千5百も12月初めには摂津西宮と備後尾道に到着した。  12月9日朝、薩摩、安芸、越前、尾張(遅れて土佐も)の藩兵が宮中に入り、それまで宮門の警備に就いていた会津、桑名の兵を追い払って各要所を固めた。  五藩の兵に守られた宮中の学問所に親王、公卿の他、薩摩、安芸、越前、尾張、土佐の諸侯を集め、明治天皇(15歳)が王政復古の大号令を下した。  摂政、関白、幕府の廃止が明示され、加えて五摂家、門流、議奏、武家伝奏の廃止ならびに守護職、所司代の廃止が布告された。  幕府(徳川慶喜)、京都守護職(松平容保)、京都所司代(松平定敬)が正式に廃止され、新設された「総裁・議定・参与」の三職には徳川慶喜の名前はなかった。

 同日夜、小御所において初めての三職会議が開かれた。席上、岩倉具視と大久保利通(参与)は徳川慶喜の*辞官納地を主張し、山内豊信(容堂)、松平慶永(春嶽)と対立。会議は紛糾して深夜におよんだが、慶喜に辞官納地を命ずることが決定された。  *辞官納地・・・慶喜の内大臣の官位辞退・領地返上

 一方的に御所警備の任を解かれ、追い払われた会津・桑名藩兵や在京の幕臣たちが二条城に集まり激昂しました。彼らは口々に「薩摩を討つべし」と騒いだが、徳川慶喜は激発しようとする会津や桑名の兵をなだめすかし、大坂城に退きさがった。  この時慶喜の下には幕兵5千余、会津3千余、桑名1千5百余、合わせて約1万の兵がいた。大坂湾には榎本武揚が率いる軍艦開陽もあり、志気も高く、兵力も充分にあったのに慶喜は武力討薩に出ず、大坂に退き下がったのである。  薩摩の大久保利通は、慶喜が抵抗もせず、あまりにあっさりと大坂に退いたので驚いた。 大久保は戦いに敗けることまで計画に入れていて、その時は天皇をつれて広島あたりまで逃げるつもりだったそうだ。

参考文献

・大政奉還と王政復古(http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu10.htm)

・wikipedia

paru


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