班田収授法

出典: Jinkawiki

 律令国家の土地制度で、良民が満6歳になると男子に2段、女子にその3分の2の1段120歩、賤民の奴(ぬ)と婢(ひ)には良の男・女の3分の1ずつの口分田を班(わか)ち与える。この口分田の班給は、6年ごとにつくられる戸籍を基準にして行われ(6年1班)、本人が死亡すれば、次の班田の年に国家が没収する。班田収授法は唐の均田制にならって大化改新の詔(みことのり)に規定されているが、慣行として大化前代からあり、全国的な戸籍に基づいて施行されたのは、浄御原律令の制定以後の692年の班田が最初とみてよい。均田制では、受田資格と租調負担とが密接な関係にあり、受田年齢と租調負担年齢とが関連していたが、日本の班田制では、調庸を負担しない子供や老人や女子にも口分田を与えている。法のうえでは11月上旬から翌年5月末までに戸籍を、農繁期が終わる10月中に校田帳・班田授口帳を作成し、その翌年2月末までに班田を行う仕組みであったが、校田は1カ月では不可能で、実際には2年間で造籍、次の2年間で班田、あしかけ4年を費やした。班年には国司または班田使が死亡者の口分田を収め、新たに受田資格をえた男女に給田した。口分田は戸を単位に総計されるが、実際には1か所にまとめて支給されたわけではなく、あちこちにばらばらにわけて支給され、ときには、家から数キロも離れた所で支給された。その場合には、「万葉集」に歌われているように、仮廬(かりいお)を建てそこに仮寝して農耕に従事した。班田の結果は田図・田籍に記録され中央に報告された。しかし9世紀になると、墾田の増加による校田の困難化や偽籍の増大によって6年ごとの班田は不可能になり、一紀(12年)一班の制が行われたが、やがて廃絶した。


出典

『日本史小辞典』 角川書店 竹内理三編

『山川日本史小辞典』 山川出版社


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