生麦事件
出典: Jinkawiki
1862年8月21日、幕政改革の目的を果たした久光は、江戸を出発し、東海道を京都へ向かった。午後2時ごろ、久光の行列約700人が、神奈川宿近くの生麦村に差し掛かった際、馬に乗った男女4人のイギリス人と鉢合わせした。上海在留商人C・L・リチャードソンと香港在留商人の妻マーガレット・ボロディール夫人、案内役の横浜在留商人ウィリアム・マーシャルとウッドソープ・C・クラークで、彼らは観光のため、川崎大使へ向かう途中であった。 2列になって進んでくる4人に対して、薩摩藩士らは馬を下りて道を譲るように、身振り手振りで伝えたが、言葉が通じないため事情が飲み込めず、先頭のリチャードソンの馬が久光を乗せた籠の側まで寄ってきてしまった。この無礼な振舞いに怒った供頭の奈良原喜左衛門が、リチャードソンの左腹部に斬りつけた。これを見た他の従士が残りの3人にも斬りかかった。クラークとマーシャルも斬られて肩や腕に傷を負いましたが、ボロディール夫人と共に逃走し、クラークとマーシャルは神奈川宿のアメリカ領事館(本覚寺)に助けを求め、ボロディール夫人はそのまま横浜のイギリス公使館に向かった。ボロディール夫人は無傷だったが、横浜の居留置に着いたときには放心状態で、まもなく精神に異常をきたして死亡した。 この事件について、久光らは後日、リチャードソンにとどめをさしたのは、長く苦しませないための武士としての心遣いだったと証言した。しかし、イギリス側はこれを非道で野蛮な行為であるとみなした。このような両者の認識の違いが、事件をさらにこじらせ、薩英戦争へ発展していく。
参考
・蔵 敏則 「新説 戦乱の日本史 第40回」 2008 小学館