田中正造2
出典: Jinkawiki
田中正造は、1841年11月3日、父富蔵、母サキの長子として下野国阿蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれた。当時の田中家は祖父の善造以来、名主を勤める家であり、この名主家の長男として生まれ、自らものちに若くして名役職についたことが、正造に村人の生活を守るためには時として自らの生命をかけることも必要になるという名主意識を一生涯植え付けることとなった。正造は1857年17歳で父の割元承認のあとをうけて小中村の名主となり、29歳までの12年間小中村の名主であった。名主になったから、農業の利潤の乏しいのに満足できず、父の反対を押し切って藍玉の製造と販売を始めた。
正造は1878年頃から民権運動に挺身して、さらに国会開設後も、中央の政界に生き残って、いわゆる民党に属して活動した。同年7月、栃木県第四大区三小区区会議員に選ばれ、政治の道に入った。正造は1879年に、政治に一身を献げようという決心を堅めて、そのことを神に誓った。1880年2月阿蘇郡選出の栃木県会議員となる。正造の県会議員としての活躍は、①自由民権家としての活動、②県政への献貢、③県令三島通庸への抵抗の3つにまとめられる。1890年7月、正造は第一回衆議院選挙に改進党候補として栃木三区から出馬して当選した。以来、議員を辞職する1901年10月まで11年間、正造は人民のために国会議場で奮闘することになる。
彼の活躍は、諸種の不生事件の糾明と足尾鉱毒事件に関するものの2種類に大別される。正造は、政府の要職員に足尾銅山の鉱業停止を説いてまわり、農商務省大臣榎本武揚の被害地視察を実現させた。榎本は農商務省大臣としては初めて、1897年3月23日、被害地を視察し、帰京した翌日、松方内閣内に足尾鉱毒調査会を発足させて辞職した。1902年の第十五回帝国議会において、島田三郎は、足尾銅山鉱毒問題に関して、重大な暴露演説をした。第十五議会は、田中正造の最後の議会であった。正造は1892年12月に鉱毒問題に関する最初の質問書を議会に提出して以来、10年の間、終始一貫、足尾銅山の鉱業停止を要求して戦ったが、目的を達成することはできなかった。第十五議会で人民の抵抗権を披歴したあと、1901年10月23日、正造はついに衆議院議員を辞職した。だが彼は、生き続ける限り、人民のために戦うこととなった。
1907年8月に利根川が氾濫し、正造は利根・渡良瀬川水系の河川調査を熱心に始め、それは死の年1913年まで続けられた。同年の8月2日、ほとんど行き倒れの状態で、栃木県足利群吾妻村下羽田の庭田清四郎宅に倒れこんだ。そして、約一か月後の9月4日、多くの人々の手厚い看護のうちに、胃がんで亡くなった。
参考文献
・林竹二著,『田中正造の生涯』,講談社現代新書
・布川清司著,『田中正造』株式会社清水書院