立身出世
出典: Jinkawiki
社会的に高い地位について有名になることの意。
西国立志編
『西国立身編』とは、イギリスのサミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)の『セルフ・ヘルプ』(自助論)を中村敬宇が翻訳したものであり、1871年初め、富と権力の世襲を批判し、有名な「天は自らを助くる者を助く」という文から始まる本である。1921年になるまで売れ続け、さらに1938年には『セルフ・ヘルプ』の改訳版があらためて出されたほどであった。また、明治天皇の進講のテキストになり、小学校の修身教科書に用いられた。『セルフ・ヘルプ』はイギリス民衆に日常生活における自立を訴えるために、多くの人々の逸話的小伝記を集めたものであり、日本では、敬宇の漢文書き下しの明文によって、自立の主張が初めて西洋文明にふれた当時の日本人に感動を与えた一冊である。とくに、当時教育を受けていた武士たちに広く読まれ、立身出世のための勤勉、忍耐、辛苦の徳目の書とみなされ、立志物の氾濫を呼び起こした。
学問のすすめと立身
『学問のすすめ』とは、福沢諭吉と友人の教育家である小幡篤次郎とが、中津の学校の開校を記念して送った書信から始まるものであり、1872年2月に慶応義塾が小冊子にして出版したものである。これは、士族を対象とし、かつ、個人のインスピレーションに関して書かれた当時の著作のなかでも、発行部数が多いことで群を抜いており、成り立ちが『西国立志編』と全く異なっていた。だが、この『学問のすすめ』では、『セルフ・ヘルプ』がそうであるように、天と人間の関係についての叙述から始まっている。その内容は、以下のようなものである。
「天は人のうえに人を造らず、人の下に人を造らずと云えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人同じ位にして生まれながら貴賤と上下の区別なく・・・」
というようなものである。だがしかし、出生における平等は主張したものの、人間は貴賤、高低、賢愚、貧富に分けられると述べられており、福沢はなぜこのような差異が生まれるのかを説明している。それは、人間の間の地位の違いは、彼らに学問の力があるか否かだけによるというのである。そしてこれは、「人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を努めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」という文章から見て取れる。福沢自身が外国語の翻訳に努めていたように、ここでいう学問とは思弁的・芸術的な学問よりは「実用的」な学問を強調し、多くの人々に影響を与え、のちの学制成立に関しても影響を与えたとされている。
また、1872年に発布された学制では、「身を立てる」ということが強調されており、これらはもとは戦場できわだった働きをした武士を指して用いられたようであるが、その後の平和な江戸時代になって、官僚制的な地位と関連するようになった。卒業式などでよく歌われている「あおげば尊し」の歌詞にもあるが、「立身=身を立てる」という言葉は、名をあげ地位をなした人間は、両親や先祖のために尽くしたことを意味するものとされた。
明治から現代へ
明治時代の終わりごろまでに、明治初頭の「書生節」にみられた学生像は、だんだん不適切なものとなっていった。たしかに、大将も元帥も参議も大臣も、みな最初は書生であり、明治時代初期のころはすべての書生が、大将、元帥、参議、大臣、あるいはそれに相当する高い地位に到達するはずであると想定されていた。しかし、明治時代の終わりには、「書生節」でうたわれたような高い地位に到達することができるのは、教育のある青年のごく一部にすぎないことに気付かされ、仮に「立身」の頂点にたどりついた者も制度化された順路をたどり続けなければならなかった。こうした高い地位にたどりつくことができなかった教育ある青年の大半はのちに「サラリーマン」と呼ばれる、政府や企業での宮仕え的な労働に従事するホワイトカラー職になった。また、このほかにも「職員」ないしは「月給取」とよばれる立場の仕事についた人もいたが、第一次世界大戦や世界の経済状況によって、かならずしも安定した職ではなく、現代でもたくさんの就職至難者がでているように良い大学をでたからといって必ずしも良い職に就けるわけでもないように、徐々にこの立身主義的な思想はなくなりつつある。
―参考文献―
「立身出世の社会史」 E・Hキンモンス 著 広田照幸・加藤潤・吉田文・伊藤彰浩・高橋一郎 訳 玉川大学出版部