端午の節句

出典: Jinkawiki

目次

端午の節句の由来

端午の「端」には「始め」という意味があり、「午」は数字の「五」と同音であることから「月の始めの五日」を表している。約2300年前に中国から伝わったという説が強い。

なぜ五月人形を飾るのか

兜や鎧は身を守る道具であるため、武家社会の中で、男子にとって非常に大切な物であった。やがて江戸時代に入り、泰平の世になってからは、子供の身を守り、災いがかからないように願いを込めて、兜や鎧をつける風習が広がった。

なぜ菖蒲を飾るのか

古来、菖蒲には邪気を払う力があると信じられていた。故に昔から、五月五日の日に無病息災を祈る宮廷行事で用いられ、民家でも軒に飾られるなどした。武家の時代になると、「菖蒲」と武を尊ぶ意味の「尚武」が結びつき、男の子にふさわしい物となった。また、菖蒲の花がこの時期に咲くこともあり、端午の節句に欠かせないものとなった。

端午の節句の歴史

[奈良時代] 奈良時代になると五月五日の節会が重んじられ、端午は五月五日に限られた呼称となる。節会では、無病息災を祈って、天皇が冠に菖蒲をつけ、臣下にも菖蒲酒をあたえ、御殿の軒には菖蒲をふいた。また、騎射や走馬の儀式も行われ、天下の安全を祈った。 [鎌倉室町時代] 鎌倉室町の時代になると、政治の中心が朝廷から武家に移った。武家の間では、菖蒲が「尚武」つまり武を尊ぶ意味にも通ずるため「尚武の節目」としてこの日が重んじられた。 [江戸時代] 端午の節句が現在のように男の子の誕生を祝う日になったのは、江戸時代に入ってからである。武家の間だけではなく、広く庶民の間にも広まり、男の子の健やかでたくましい成長を祈るようになった。

参考文献 人形の久月 人形の歴史・伝統 https://www.kyugetsu.com/dolls-histry-and-tradition/dolls-histry-and-tradition_03_04

どうする子供の祝い わが草研究会 金園社


ハンドルネーム kジンカ


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