第二次世界大戦15

出典: Jinkawiki

第二次世界大戦

第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。  この戦争に先だつ第一次世界大戦は、ヨーロッパを舞台とし、1914年8月、ヨーロッパ諸国がイギリス・フランス・ロシアの協商国側とドイツ・オーストリアの同盟国側に分かれて交戦状態に入り、1915年5月イタリアの参戦、1917年4月アメリカの参戦、1918年3月ロシア革命政府の戦線離脱を経て、1918年11月ドイツの休戦条約調印で終了した。これに対し第二次世界大戦は、二つの中心をもち、ヨーロッパでは英独戦争、独ソ戦争、東アジアおよび太平洋では日中戦争、太平洋戦争を主要な段階ないし局面としている。これらの諸段階ないし局面は、それぞれ独自の諸要因から発生し、帝国主義戦争(英独戦争、太平洋戦争)、祖国防衛戦争(独ソ戦争)、民族解放戦争(日中戦争)などの性格を帯びるが、戦争の拡大とともにそれぞれの対抗関係は有機的な連関に組み込まれ、連合国(イギリス・アメリカ・フランス・ソ連・中国)対枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)という基本的な対抗関係を構成するに至った。これはまた同時に、民主主義擁護のための反ファシズム戦争という第二次世界大戦の基本的性格が客観的に顕在化される過程でもあった。[吉田輝夫]

大戦の始期の問題

第一次世界大戦は「勃発(ぼっぱつ)」したといわれる。1914年6月28日のサライエボ事件を直接の契機として、7月28日オーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、7月30日ロシアは総動員令を下し、ドイツは8月1日ロシアに、8月3日フランスに宣戦し、8月4日イギリスはドイツに宣戦した。つまり7月28日から1週間のうちにヨーロッパ列強は戦争に「なだれ込んだ」(ロイド・ジョージ)のである。「勃発」とか「なだれ込む」という表現に端的にみられるように、第一次世界大戦は個々の政治家の意図を超えるいわば自然史的過程としてとらえられた。開戦の経緯だけではない。4年もの長期化、新兵器の登場、国内経済の動員など、そしてロシア、オーストリア・ハンガリー、ドイツ三大帝国の革命による崩壊と戦争終了、これらをだれが予見できたであろうか。  第一次世界大戦が青天の霹靂(へきれき)のように「勃発」したのに対して、第二次世界大戦は「引き起こされた」(ホーファー)といわれる。ヒトラーが慎重に計画し、準備を重ね、意図的に「引き起こした」というのである。戦争を「引き起こした」人物(ヒトラー)あるいは勢力(日本軍部)は早くから特定されたから、これらを適切に押さえ込むことで戦争を避けることもできたろう。この意味でチャーチルは今次大戦を「不必要な戦争」とよんでいる。このようなとらえ方の研究史的意義については後に触れるとして、ここでは、前大戦とは異なり、東アジアでは日本が、ヨーロッパではドイツ・イタリアが積極的に行動を起こし、侵略を積み重ねつつ、今次大戦を「引き起こした」ことをまず確認しておきたい。  ここから大戦開始の時期をどこに置くかという問題が生まれる。西ヨーロッパを中心にみれば、1939年9月初めといえよう。9月1日ドイツ軍はポーランドに侵入し、3日イギリス・フランスはドイツに宣戦布告したからである。だが、連合国対枢軸国という基本的な対抗関係が明確化する時点をとれば、1941年12月となろう。すでに英仏と交戦するドイツは1941年6月ソ連を攻撃し、米英ソの接近をもたらしたが、同年12月8日日本の対米英宣戦布告によって、東アジアでの日中戦争は太平洋戦争に拡大発展するとともに、ヨーロッパでの英独戦争と有機的に連結されるに至ったからである。9日中国は日独伊に、11日独伊はアメリカに宣戦布告をした。わずかに日ソ間に中立条約が維持されたにすぎない。  1941年12月に始まる太平洋戦争は、確かに日本にとって重大な段階ないし局面を意味するにしても、この時点に第二次世界大戦の開始時期を求めることはできないであろう。日米対立の主要原因は中国問題にあったからである。すでに、1937年7月以来、日本は中国に対する全面的攻撃を始めていたし、さかのぼれば1931年9月満州(中国東北部)で軍事行動を起こし、1932年には「満州国」を樹立していた。同年4月、毛沢東(もうたくとう)は中華ソビエト政府の名において対日宣戦布告をしていたのである。日本でも最近、1931年9月の満州事変以来1945年8月の敗北までを「十五年戦争」として把握する見解が提唱されている。  第二次世界大戦は二つの中心をもつが、本項では便宜上叙述の重心をヨーロッパに置く。ここではナチス・ドイツ(ヒトラー)とファッショ・イタリア(ムッソリーニ)とが戦争の震源地であって、両国の侵略戦争への衝動、これを抑止できない英仏の宥和(ゆうわ)政策がまず概観され、1939年9月のドイツのポーランド侵入が「青天の霹靂」としてではなく「諦念(ていねん)」をもって受け取られた事情を明らかにする。大戦中については個別的な戦闘の経過にのみ注目する戦争史ではなく、戦争の政治史、社会史、経済史に留意し、問題点の指摘に努めた。大戦のいま一つの中心、東アジアおよび太平洋における「日中戦争」「太平洋戦争」については、とくに別項で解説される関係上、ここでは必要な範囲にとどめた。[吉田輝夫]


大戦前史

ベルサイユ体制 1914年の第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)から1945年の第二次世界大戦終了までを連続した過程としてとらえ、17世紀の三十年戦争に次ぐ第二の三十年戦争とする見方(ノイマン)もあるけれども、第二次世界大戦の前史としては、1929年10月に始まる世界経済恐慌に一つの画期を認めるのが妥当であろう。1931年の満州事変はこの恐慌と密接な連関にあったし、1933年のヒトラー政権の成立もこの恐慌の社会的政治的影響を無視しては考えられないからである。だが本項では、第一次世界大戦後の国際秩序すなわちベルサイユ体制のもつ問題性を指摘することから始める。  第一次世界大戦が終了したとき、東・中欧には革命運動が渦巻き、中国、インド、アラブ世界などの植民地・半植民地では、民族解放闘争が高揚し始めていた。アメリカ大統領ウィルソンの「十四か条」は、一面ではこのような民衆の運動や願望、期待を代表したけれども、その理想主義は、ロイド・ジョージやクレマンソーの老獪(ろうかい)な帝国主義的現実主義に翻弄(ほんろう)されたのであった。しかもアメリカ議会はベルサイユ条約を批准しなかったため、ウィルソンは失意のうちに引退せざるをえなかった。かくてウィルソン主義は瓦解(がかい)し、アメリカは孤立主義に復帰する。大戦後、資本主義世界は社会主義国ソ連の成立によって縮小されただけでなく、敗戦国ドイツは弱体化し、戦勝国であるとはいえイギリス、フランス、イタリアの各国は戦争の被害と莫大(ばくだい)な戦費のため疲弊し、かわってアメリカと日本とが台頭して、資本主義世界の内部構造は大きく変動した。アメリカは最強の資本主義国となったいま、孤立主義に復帰することは、世界政治と世界経済において最大の発言権を留保しようとしたことを意味していた。  ソ連は、戦後処理会議に招待されるどころか、日本、アメリカ、イギリス、フランスなど帝国主義列強による干渉戦争に苦しみ、ポーランド、ルーマニアのため領土を奪われ、ボリシェビズムの西漸を阻止するための、フィンランドからバルト諸国、ポーランドを経てルーマニアに至るいわゆる「防疫線」で西欧から隔離させられた。世界史上最初の社会主義国ソ連を排除し、これに国際的孤立を強いるベルサイユ体制とは、ソ連からみれば、帝国主義列強の支配する反ソ的反革命的国際秩序にほかならない。かくてソ連は、国際的孤立の打破に努めるとともに、帝国主義列強による包囲、反ソ十字軍の脅威に不断の警戒を怠らないようになる。  いうまでもなくベルサイユ体制は、敗戦国ドイツを犠牲とし、これを抑圧する体制として成立した。ドイツはベルサイユ条約を「口授(ディクタート)」され、植民地を失い、領土は削減され、厳しい軍備制限を課され、「天文学的」数字に上る賠償金にあえいだ。しかも戦争責任はひとりドイツにのみあるとされ、国家としての名誉まで傷つけられた。ベルサイユ条約の「修正」はドイツ・ナショナリズムの結節点となった。  ベルサイユ条約は、ある意味で三大国アメリカ、イギリス、フランスの利益妥協の産物であったから、敗戦国ドイツだけでなく、これに強い不満を抱く戦勝国のイタリア、日本も「修正」を要求した。1930年代に入ると、日独伊三国は自ら「持たざる国」と称し、「持てる国」英仏に対して公然と「陽(ひ)のあたる場所」(商品の販売市場、原料供給地、つまり植民地)を要求するようになる。  ベルサイユ会議で対独強硬策を追求したフランスは、1923年初め、賠償引き渡しの遅延を口実に、ドイツ経済の心臓部ルール地方を占領した。ドイツはこれに「受け身の抵抗」で対抗した。ドイツ経済は崩壊し、革命的危機が生じた。11月にはヒトラーのミュンヘン一揆(いっき)もみられた。かくてドイツは「受け身の抵抗」を中止せざるをえず、インフレーションの収束を図るが、このためには賠償問題が解決されなくてはならない。賠償問題は、イギリス、フランスの対米戦債問題と緊密に連関していたから、アメリカの主導下に1924年ドーズ案がまとめられた。アメリカ資本によってドイツ経済を再建させ、その支払う賠償金をもってイギリス、フランスは対米戦債を返済するというのである。ドイツ経済の復興を契機としてヨーロッパ経済は急速に安定に向かった。フランスの対独強硬策の挫折(ざせつ)は、その追求するヨーロッパでの政治的、経済的な覇権的地位の喪失、対英従属の強化をもたらさざるをえない。  ヨーロッパの経済的安定は、政治的緊張を緩和させた。1925年、独仏国境を多角的に保障するロカルノ条約が締結され、翌年ドイツは国際連盟に加盟した。フランスはラインラントから予定よりも早く撤退した。「ロカルノ精神」は喧伝(けんでん)され、1928年には戦争の放棄をうたった不戦条約が成立した。だが「黄金の20年代」もつかのまの繁栄にしかすぎなかった。1929年10月末、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに、世界経済恐慌が始まったからである。[吉田輝夫]

引用・参考文献 https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6-558007         (コトバンク 第二次世界大戦とは)(2018.1.27閲覧)


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