第二次世界大戦9
出典: Jinkawiki
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第二次大戦
ドイツのポーランド侵攻
1939年9月1日、突然、ナチスドイツ軍がポーランド領内に侵攻した。ポーランド側には、40個師団の兵力と1100輌の戦車、740機強の戦闘機で対抗したが、倍以上の戦車と戦闘機に守られた57個師団ものドイツ機械化部隊がおそいかかった。ドイツ軍の戦法は、急降下爆撃機と大群の戦車部隊を先行させ、その後に大量の機械化歩兵部が続く形の電撃戦で、ポーランド軍の主力部隊は約2週間の戦闘で破滅てきな打撃を受け、敗退させられた。また9月17日には、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づいてソ連軍が東部ポーランドに侵攻し、10月5日にはポーランド軍が最終的に降伏した。 ヒトラー政権は、ヴェルサイユ条約によって割譲されたポーランド回廊とダンツィヒの奪還を目指してポーランドに圧力をかけていた。ヒトラーが早くから東欧をドイツの生存権として支配する野望を抱いていたことも知られていた。 1939年3月にドイツ軍がミュンヘン協定に違反してプラハを占領し、チェコスロヴェキアの解体を強行した後には、それまでドイツに対する宥和政策を推進していたイギリスのチェンバレン政権やフランスのダラディエ政権は態度を硬化させ、次の侵略目標と予想されたポーランドに対して有事の際の支援を約束する宣言をおこなっていた。 そのためヒトラーとしては、ポーランド侵攻を強行すれば英仏との戦争に発展する可能性を覚悟しなければならなかった。しかし、当時のドイツは、1944年を完成年度とする軍備の大拡張計画を推進中でもであり、ヒトラーとしても英仏との戦争開始ですは1年半か2年先が望ましいと考えていた。そのためヒトラーはソ連との間で不可侵条約を締結し、ポーランドの孤立化が実現できれば英仏の介入は防げると予測して、ポーランド進行計画を進めた。 事実、8月23日にモスクワで独ソ不可侵条約が調印されると、ヒトラーはその直後に、8月26日を期してポーランドに進行する国防軍に命じた。しかし、ヒトラーの予想に反してイギリス議会はポーランドとの同盟条約を批准するとともにわ非常指揮権法を制定して軍備を強化する姿勢を示した。そのうえ、同盟国であるはずのイタリアのムッソリーニは軍事不足を理由に対英仏戦には加われないとれんらくしてきた。陸軍参謀総長のハルダーによると、ヒトラーはの書簡を持参したイタリア大使を氷のように冷たい表情で送り出し、ポーランドへほ侵攻命令を延期させたが、当時のヒトラーは寝不足で、疲れて果て声もかすれた状態にあったという。 つまり、独裁的権限をほしいままにしていたヒトラーにしても、この時点でただちに世界戦争の開戦を決断できたわけではなく、1年前のミュンヘン会談の時と同じく大国の黙認の下で小国を併合し、将来の大戦争に備える戦略であった。しかし、彼の希望に反してイギリスが対独硬姿勢を見せ始めるなかで、ヒトラーは、ポーランド侵攻をあくまで強行するか否かの重大な岐路に立たされていたのである。 しかもドイツはエニグマという暗号化システムを使っていた。このエニグマのおかげで大戦初期のドイツは連合国軍に大きな快進撃を与え続けていた。符号はことばで書かれた通信文を、文字や、数字、記号などに置き換えたものだ。暗号のようはこの符号の一種で、通信文の中に文字や数字を加えたり、置き換えたりして、通信の内容をわからなくするようにつくられる。戦争中、連合国側も数時間側も、ともに符号や暗号を広く用いた。しかし、日本の紫 暗号機やドイツのエニグマ暗号機は、それぞれアメリカとヨーロッパの暗号解読者によって解読されて、軍事情報や外交情報が連合国側の手に落ちたために、連合国側はかなり優位に立つことができた。 アランチューリングというイギリスの数学者は、戦時中に英国情報曲のために働いた優秀な人才のに1人だった。かれはエニグマ解読に重要な役割を果たし、コンピュータ理論や人工知能に関するかれの研究は現代のコンピューターの発達をもたらした。
アメリカからみた世界大戦
開戦当時の合衆国の人口は約1億3340万人であったが、開戦後の兵力は最高で陸軍が830万人、海軍が340万人、総兵力1200万人にも達した。フランス陥落の衝撃で1940年9月に徴兵法が制定される前の陸軍は50万程度であったから、第二次世界大戦を契機に軍隊がいかに急速に拡大したかがわかる。しかも、他方で軍需産業が急成長を遂げ、新たに1500万人もの雇用が生まれたため、30年代には800万人にも及んだ失業者は一掃され、完全雇用状態が達成されただけでなく、むしろ労働力不足の状態が生まれた。その結果、多数の既婚女性が工場労働に動員されたり、南部の農村地帯に隔離されていた黒人層が北部や西部の工場地帯に移住しただけでなく、ブラセロ計画と呼ばれた政府間契約でメキシコから農業労働者が導入されるなど、労働市場には大きな変化が発生した。 軍隊に動員された若者にとって、戦争が死の恐怖に直面させられる体験であったことは中枢国の場合と同じくであったが、先人経済の急成長に支えられていた合衆国の場合は、復員法の定めによって除隊後には奨学金をもらって大学に進学することが保証されていた。それは、とくに親が19世紀末から20世紀初めに東欧や南欧から移住にてきた新移民系の人二世世代の大学進学の機会を飛躍的に拡大し、戦後になって彼らが中産階級化して、都市中心部の貧民街から脱出し、郊外の小綺麗な住宅に移ることを可能にした。それゆえ、合衆国の青年にとって従軍は反ファシズムの理想の実践だけでなく、自分自身の地位向上の機会を与えるものでもあり、多くが進んで従軍した。しかし、正戦の熱狂のなかでも、徴兵を拒否するものが4万3000人もいたし、逆に同性愛を理由があるに入隊を拒否されたものも4000~5000人ほどいた。 真珠湾攻撃の衝撃を受けたアメリカ合衆国は、産業経済界が巨大な戦争マシーンに変貌してした。アメリカ大統領フランクリンルーズベルトが述べたように、経済的は民主主義の兵器庫となったのだ。アメリカは陸、海、空で戦い、勝利を収めるのに必要なあらゆる種類の兵器を大量生産した。戦時生産のための支出は膨大な額にのぼり、失業者は姿を消し、賃金は倍増した。配給制はあったものの、他の国々よりもはるかに緩やかなものだった。戦争に参加した他の国とは異なり、アメリカは特需にわき、多くの人々はかつてないほど多くの金を手にすることができるようになった。 戦闘機を作っていたボーイング社シアトル工場のように、飛行機工場は兵器生産に大きな役割を果たした。アメリカのことがは全部で、飛行機25万機、戦車9万代、駆逐艦350席、潜水艦200隻以上を生産した。1944年には、世界の兵器の40%がアメリカで生産されていた。
大戦中の衣服
戦時中のアメリカの衣服について。やはり戦時中ということで物資の不足が目立つ。例えばジーンズがわかりやすい例である。 アメリカといえばやはりリーバイスであろう。そのリーバイスの戦時中のモデルである。これはアメリカ政府から規制されたジーンズである。S501XX 通称 大戦モデル。本来のリーバイスならケツポケットのリーバイス社のシンボルであるアーキュエイトステッチが刺繍されている。しかし当時のアメリカは物資が不足していたため、ペイントに変更してされていた。シンボルマークであるアーキュエイトステッチを物資の不足しているからといってなくすわけにはいかなかったのだろう。 他にもコインポケットのリベットもない。ポケットを留める部分のリベットも物資の無駄遣いだと考えられたのであろう。 フロントのボタンは通常ではリーバイス社の刻印が入ったものであるのだが、このボタンも無地であったり比較的にコスパが低い月桂樹ボタンのものだったりする。 それにベルトループが大戦中のモデルだと極太になっているのもひとつの特徴である。やはり耐久性を上げることによって物資節約を考えられたものなのか。 生地も肉厚で12ozから13ozに変更されたという定説かまらあります。ここも同じく耐久性を向上する事により物資節約と考えたものなのか。 ポケットの裏側の生地も大戦中のモデルは物資が足りず労働者の着ていたネルシャツの生地だったり、兵隊が着ていた軍服の生地で製作されていたジーンズもあったという。 そのくらい切り詰まった状況でもリーバイス社の経営困難を救ったのが501であった。