第五福竜丸2
出典: Jinkawiki
第五福竜丸とは、1954年3月1日に、ビキニ環礁でアメリカ軍の水素爆弾実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びた遠洋マグロ漁船の船名である。無線長だった久保山愛吉がこの半年後の9月23日に死亡した。
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歴史
- 1947年
- 和歌山県東牟婁郡古座町(現:串本町)でカツオ漁船第七事代丸として進水。その後、静岡県焼津市でマグロ漁船に改造され、第五福竜丸となる。
- 1954年
- 3月1日
- ビキニ環礁での米軍による水爆実験「キャッスル作戦」に巻き込まれて被爆。
- 3月14日
- 焼津港に帰還し、静岡大学の塩川孝信と山崎文男によって検査を受けた。
- 3月16日
- 検査では船体から30m離れた場所で放射線を検出したことから、塩川は人や家から離れた場所へ係留するよう指示をし、鉄条網が張られた状態で係留された。その後、文部省(現:文部科学省)が船を買い上げた。
- 8月
- 東京水産大学(現:東京海洋大学)品川岸壁に移された。その後、さらに検査と放射能除去が行われた後に、三重県伊勢市大湊町の強力造船所(現:株式会社ゴーリキ)で改造され、東京水産大学の練習船はやぶさ丸となる。この時代の母港は千葉県館山市の館山港。
- 1967年
- 老朽化により廃船となり、使用可能な部品が抜き取られた後に、東京都江東区夢の島の隣にある第十五号埋立地に打ち捨てられるが、同年、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こる。
- 1968年
- エンジン部分は、廃船時に船体から切り離されて、貨物船「第三千代川丸」に搭載されていたが、航海途上の三重県熊野灘沖で座礁、沈没した。
- 1996年12月
- 民間有志(「第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ」和歌山県民・東京都民運動)によって海底から引き揚げられ、第五福竜丸展示館の脇に展示された。
- 現在
- 東京都立第五福竜丸展示館(夢の島公園)に永久展示されている。
概要
1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中にビキニ環礁で米軍により行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー (BRAVO)、1954年3月1日3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被ばくした。実験当時、第五福竜丸はアメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被ばくした。後に米は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻に上るとみられ、被ばく者は2万人を越えるとみられている。 予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初より米軍がこの爆弾の威力を4 - 8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであったため、安全区域にいたはずの多くの人々が被ばくすることとなった。第五福竜丸が米軍による水爆実験に巻き込まれて被ばくした出来事は、日本国内で反核運動が萌芽する動機になった。反核運動が反米運動へと転化することを恐れた米政府は、日本政府との間で被ばく者補償の交渉を急いだ。一方の日本政府も、復興のためにアメリカ経済に依存せざるを得ない状況であり、かつ平和的利用のために原子力技術をアメリカから導入できる可能性も出てきた時期でもあったことからアメリカを刺激したくないという思惑もあった。結果、両者は「日本政府は米政府の責任を追及しない」確約の下、事件の決着を図った。1955年に200万ドルが支払われたが、連合国による占領からの主権回復後間もなかったこともあり、賠償金でなく「好意による」見舞金として支払われた。また事件が一般に報道されると、焼津では「放射能マグロ」による風評被害が発生した。
アメリカの対応
米政府は、第五福竜丸の被爆を矮小化するために、4月22日の時点でアメリカ国家安全保障会議作戦調整委員会(OCB)は「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するためのアメリカ合衆国連邦政府の行動リスト」を起草し、科学的対策として「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする」と嘘の内容を明記し、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」と決めていた。実際、同年9月に久保山無線長がC型肝炎で死亡した際に、日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米政府は現在まで「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けており、またこの件に対する明確な謝罪も行っていない。米公文書が放射能が直接の原因ではないとの見解を出している理由は、久保山無線長の死因の直接原因は重度の急性肝機能障害であること、日本医師団が診断した放射能症(放射線障害)の主な症状は白血球や血小板と言った血球数の減少、小腸からの出血、脱毛等で、肝機能障害は放射線障害特有の特徴的症状ではないこと、被ばくが原因で肝機能障害が起きたなら、同様に被ばくしたはずのマーシャルの被ばく者にも多数の肝機能障害を起こした被ばく患者が居るはずであるが、実際は重度の肝機能障害の被ばく患者は全く発生せず、第五福竜丸の被災者17名でのみ発生し、治療中の死亡に至っては久保山無線長のみだからである。重度の肝機能障害を起こす肝炎、肝癌、肝硬変の原因因子は、そのほとんどが肝炎ウイルスの感染であり、アルコールやNASHは肝癌、肝硬変の原因としては、全体から見れば少数派であり、放射線被ばくでの発症率はアルコールよりも低く、放射線被ばくが原因での肝炎肝癌発症の症例はほぼ皆無である。また、事件当時は医療器具、特に注射針に関してはディスポ(使い捨て)は殆ど行われず、消毒して使い回しされることもしばしばであり、各種法定予防ワクチンの集団接種で使い回しされた注射針が原因でB型肝炎ウイルス感染が引き起こされ集団訴訟になったのは周知の事実である。第五福竜丸乗組員17名が重度の肝機能障害を引き起こした原因は、ウイルス感染した売血による輸血であるという指摘も存在する。1950年代当時、輸血用血液の多くは売血によって集められており、この事件の10年後である1964年に駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワーが襲撃を受け、日本国内で輸血を受けたところ肝炎に感染、これをきっかけに売血廃止に向かうまで輸血のリスクは高かった。
被ばくの影響
焼津の漁船・第五福竜丸の水爆実験による被ばくは、長崎への原爆投下に次ぐ「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」となり、日本は原子爆弾と水素爆弾の両方の兵器による原子力災害を経験した国となった。そして、第五福竜丸の被ばく、特に久保山愛吉無線長が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して死んだ出来事は、日本で反核運動が始まる動機になった。東京都杉並区の主婦による反核運動や、1955年に設立された原水禁に代表される反米色が強い反核兵器運動も、この第五福竜丸の被ばくが動機である。 第五福竜丸の被爆により、焼津や東京では「汚染マグロ」が大量廃棄された。特に3月15日に築地市場にマグロやヨシキリザメが水揚げされた際にはセリは中断され、行政の指示により流通する前に場内の地中に埋められた。また他の水産物も軒並み相場は値つかずとなった。埋めた地点には第五福竜丸の事件を後世に伝えるため「原爆マグロ」の塚が建立された(市場再整備の際東京都立第五福竜丸展示館(夢の島)に移設され、市場にはプレートが設置された)。第五福竜丸が浴びた放射性物質とその被害は、映画「ゴジラ」が制作される動機にもなった。汚染マグロは、第五福竜丸以外の太平洋上で漁をしている漁船でもあったが、米政府からの見舞金は第五福竜丸だけに支払われ、当時としては破格の金額一人当たり200万円だったために他の漁船からのやっかみがあり、また放射能が伝染すると間違った情報で、第五福竜丸乗組員は将来の病気の恐怖を抱えながら焼津と漁師の仕事を離れなければならなかった。 室戸など遠洋漁業中心の港では風評を恐れたりして、被ばくは公にならなかった。焼津港で「原爆マグロ」の放射線調査を行った放射線生物物理学が専門の西脇安(当時大阪市立大学教授)は、第二次世界大戦中に日本の原子爆弾開発に参加し、戦後は日本の原子力政策に関わった人物である。
音楽作品
「ラッキードラゴン〜第五福竜丸の記憶」 福島弘和(2009年):ベン・シャーンのラッキードラゴンから受けた印象を元に創られた福島弘和の吹奏楽曲。春日部共栄高等学校吹奏楽部委嘱作品。
参考文献
- 第五福竜丸平和協会編『学び・調べ・考えよう フィールド第五福竜丸展示館』
- 小沢節子著『第五福竜丸から「3.11」後へ 被爆者大石又七の旅路』岩波書店
- 福島弘和『ラッキードラゴン〜第五福竜丸の記憶』