細川家<熊本藩>
出典: Jinkawiki
細川家は室町幕府にあって、管領を務めた一族の支流である。藤孝のとき、はじめ足利将軍家、のち織田・豊臣に仕え、丹後宮津の領主になった。 慶長5年関ヶ原の戦いに藩祖忠興は、徳川家康に属し、戦後の論功行賞で豊前国39万石に増加された。さらに、二代忠利のとき寛永九年に越後熊本54万石に加増転封となり、定着を見た。 藩財政は四代綱利のころより、疲弊しはじめた。延享4年、六代宗孝が江戸城中で刺殺され、弟の重賢が襲封した。重賢は藩財政立て直しのため、大阪の鴻池から資金調達を図ったが断られた。これを契機に「宝暦の改革」といわれる藩政改革が断行された。藩政機構の整備や人材登用、殖産興業策を進めたのである。改革は九代斉滋のころまでつづけられ、一応の成功を収め、これにより重賢は「越後の鳳凰」と讃えられている。 19世紀以降、藩内では藩校出身者を中心とする学校党と実学党の」派閥抗争が深刻化していった。このため明治維新では 最後まで反論の統一がとれずに終わった。 <歴代党首> 忠興―忠利―光尚―綱利―宣紀―宗孝―重賢―治年―斉滋―斉樹―斉護―詔邦―護久
参考文献 江戸大名 実業之日本社