美濃部正
出典: Jinkawiki
1 美濃部正 「真珠湾攻撃に参加、終戦直前まで最前線で戦い、戦後は航空自衛隊を育成した名指揮官がいた。」 しかし、世間ではあまり知られていない。 特攻を拒み、通常戦法による米軍襲撃を終戦まで貫いた航空部隊である「芙蓉部隊」。整備員含め総勢1000人もの隊員を統率した者が美濃部正という29歳少年である。海軍には当時、虎部隊、豹部隊、嵐部隊、龍部隊といったいかにも勇ましそうな航空部隊があった。
2 芙蓉部隊 この部隊は夜間攻撃を専門としている。芙蓉部隊の芙蓉とはハスの花の美称である。アオイ科のフヨウ属に属している。ピンクの大輪の花を咲かせ夏を代表する花木とされている。
3 彼の手腕 前線指揮官にすぎない彼は海軍上層部が推し進めた無謀な作戦といえる特攻に公然と拒んだ。また、航空特攻作戦の生みの親とされる大西瀧治郎中将を相手に特攻の非効率性を指摘した。そして、芙蓉部隊は特攻編成から除外された。しかし、ただ上層部の作戦に拒んだだけでは納得させることはできないだろう。彼はそれをやってのけている。夜間攻撃の有効性を主張し、過酷な訓練と新兵器すの採用。綿密な戦術と基地の秘匿でそれを実証してみせたのだ。ここから彼がただ特攻が非効率だから反対していたのではないことがわかる。実力がありそのうえで特攻を使わなくてもよいと言っていたということだ。しかし、自分の良心に照らして正しいと信じることを公言し、実行したのは事実だ。あの時代で自分の良心に従い軍に対して公言できた人は彼を含めて少なかったであろう。そして、彼は1985年12月に静岡第一テレビでこう語っている。「命令の一歩手前の段階だったから、言うべきことは言わなきゃならんと思ったまでであると。」「それでもやれと言われるなら、もう何をかいわんや。命令を拒否すふなんてことは軍律上許されるもんじゃないんです。」ここから、彼は下級者だけを捨て駒として扱うような「特攻の乱用」に反対したのであって、特攻を頭から否定したのではないことがうかがえる。また、「特攻の是非は単純には決し難い」とも残していることからわかる。だが一番決定的なのは「特攻」 だろう。
4 彼の最期 享年81歳で幕を閉じた美濃部正。戦前は特攻に対し積極的だった軍部の上層部。しかし、戦後は手のひらを返したように特攻は兵士が自らが志願したと発言していたりしていた。事実とは全く異なることだ。だが彼はおとなしく何も言わず戦後から四半世紀を過ごした。
5 参考文献 ・特攻セズ 美濃部正の生涯 堺 克彦 2017年 株式会社方丈社 ・みんなの趣味の園芸 NHK出版 https://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-927
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