芸亭
出典: Jinkawiki
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概要
芸亭(うんてい)とは奈良時代の有力豪族である石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)によって作られた日本初の公開型の図書館である。彼は自分の邸宅を阿閦寺(あしゅくじ)という寺とし、仏典以外の書物をも所蔵する図書館のような施設を学問をする人々に開放したとされている。 芸亭以前にも 8世紀の初めごろ,国家の蔵書を管理する組織“図書寮(ずしょりょう)”が中務省(現在の宮内庁に相当)開設されているが,ここは役所内の施設であり,一般公開はされていなかった。 芸亭の位置については、古来多くの学者によって研究されてきたが、昭和46年に奈良県の一条高校の校庭を整地した際に、阿閦寺の一部であるとされる石がいくつか発見されたという根拠のもと、現在では一条高校付近だといわれている。現在では付近に奈良県図書館委協会から石上宅嗣の業績を賛えるとともに、芸亭の存在をひろく世に認識され、その趣旨が今に生かされるよう顕彰柱が建てられている。 芸亭以前にも 8世紀の初めごろ,国家の蔵書を管理する組織“図書寮(ずしょりょう)”が中務省(現在の宮内庁に相当)開設されているが,ここは役所内の施設であり,一般公開はされていなかった。
芸亭に関する教育的見解
芸亭利用者の青年貴族賀陽豊年という人物の勉強熱心さに宅嗣も感心し、宅嗣自らがその全知識を豊年に伝授したという話が伝わっている(後年、豊年は優れた詩人・学者として名を残している)。このため、芸亭は一種の教育機関としての側面も有していたとする見解も存在する。
石上宅嗣
石上宅嗣(729―781) 奈良時代後期の官吏、文人。8世紀半ばからの漢詩文の文人として有名。 中納言(ちゅうなごん)乙麻呂(おとまろ)の子。751年(天平勝宝3)従(じゅ)五位下(げ)を授けられ地方官を歴任、761年(天平宝字5)遣唐使となったが翌年やめさせられている。一説には遣唐使を辞退したという説もある。その翌年、藤原良継(よしつぐ)、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、大伴家持(おおとものやかもち)らと謀って藤原仲麻呂(なかまろ)を除こうとして発覚、良継が1人責任をとったが、宅嗣も大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷された。その後、参議、大宰帥(そち)、式部卿(きょう)、中納言、皇太子傅(ふ)の要職を歴任、大納言正三位(さんみ)に上り、死後正二位を贈られた。 晩年はその名声を恐れた藤原氏に警戒の目を向けられたために、ついに大臣の地位に昇ることがなかったという見解もある。
参考文献
天璽瑞宝http://mononobe.nobody.jp/tabi/yakatug/yakat.htm (2月2日閲覧)
日本大百科全書(小学館)http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E5%AE%85%E5%97%A3/(2月2日閲覧)
詳説日本史 山川出版社
ウィキペディア 石上宅嗣http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E5%AE%85%E5%97%A3(2月2日閲覧)
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