華僑
出典: Jinkawiki
華僑は、中華人民共和国の中国共産党政府の定義によると、「中国・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中華人民共和国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称である。
華人と混同される場合があるが、華僑と、華人は異なる概念である。これら概念を区別する場合は、華僑とは二重国籍等の状態によって中華人民共和国籍を保持したままの者を指す。華僑は第二次世界大戦までその経済基盤からの本国への送金によって、中華民国の国際収支の重要な要素であった。
東南アジア(シンガポール含む)、アメリカ、日本、イギリス、オーストラリアなどに多い。東南アジアにおいては華僑は華南地方出身が多いとされる。もともとは、海南島(現海南省)を含む広東省や福建省の出身者が多いが、最近は上海や北京周辺や、中華民国の出身者も増加している。
かつてインドシナには多数の華僑が在住していたが、社会主義化や戦乱により華僑の多くが国外に脱出した。特にベトナムからは1975年以降、110万人もの華僑がベトナムから出国し第三国に定住している。東南アジアの華僑人口は増加傾向にあるなか、ベトナムとインドネシアの二国は、華僑排斥運動のため、華僑人口が一時に比べ激減している。
中国語は方言の差が大きく、同じ省内でも言葉が通じないことも当たり前で、方言の通じる、出身地が同じ人たちが助け合ってコミュニティーを形成することが多い。
華僑は「幇(パン)」という同郷同胞の連帯組織を作り、相互扶助を行う。 「幇(パン)」には次の2種類ある。 郷幇(きょうばん)……籍貫(しゃくかん)(=出身地)に基づく地縁的集団。 会館(同業・同郷・同族者らが集会用に異郷に建てた施設)、義塚または義山(共同墓地)、学校、病院などを建て、相互扶助を行う。 主な郷幇は、福建幇、潮州幇、客家幇、広東幇など。
業幇(ぎょうばん)……同業者で作る職業的連帯集団。仕事上の便宜を与え合う
日本においても、多くの華僑が存在し、主に経済や文化芸能の方面で活躍が見られる。女優の鳳蘭、野球の王貞治、経済評論家の邱永漢、囲碁の呉清源(戦後の一時期)、歌手のジュディ・オング(翁倩玉)、アグネス・チャン(陳美齢)等が有名である。
9世紀以前 中国が周辺地域へ支配領域を広げる時代で、中国人が海外に進出することはまれだった。
9世紀頃 中国人自身が通商にでかけるようになるが、少数。
12~13世紀 ジャワ、スマトラ、カンボジアなどに住み着いて、現地の政権と密接に結びついて貿易を行う中国商人が出現。
15~16世紀 東南アジア各地に中国人街が出来始める。
16世紀以降 明末期の動乱で中国人の海外流出が急増。原因は人口過剰とそれに伴う貧困化。 ヨーロッパによる東南アジアの植民地化が進むと、西欧人と土着民の間に立って流通経済に進出。 各地に「幇(パン)」や「会館」が作られ、華僑社会が成立。
18世紀以降 清が衰えると漢民族の海外移民が激増。 奴隷貿易の廃止を受け、広東、福建両省を中心とする沿岸地方出身者が、移民労働力として東南アジア、北米などに向かう。 中国人労働者(華工)は「苦力(クーリー)」または「猪仔(イーズー)」(=「子ブタ」の意)などと呼ばれ、子ブタのように売られていった。 清朝政府は、台湾の鄭成功など反清勢力との接触を断ち、またオランダ商人の「猪仔」狩りを防ぐ目的で、広東、福建、浙江の各省の海岸から30里以内の住民を強制移住させ、それに応じない者は「天朝棄民」とみなして見捨てた。
1911~1912 本土で「滅満興漢」を合い言葉に清朝打倒の辛亥革命が発生。華僑たちは孫文を支持し、巨額の支援金(華僑醵金)を新生の中華民国に送った。 中華民国は華僑を各地の中国領事館に登録、血統主義による国籍法で、かつての「棄民」たちを中国人と認定した。
1930年代以降 世界大恐慌とそれに続く第2次世界大戦、その後の東南アジア各国の独立に伴う移民制限等で、中国人の移住は実質的に停止。
1970年代以降 中国本土から北米、ソ連、日本などへ「新華僑」と呼ばれる非合法的な移民が急増。
1990年代 移民2世の各地の華人たちが経済力を付け、特に香港、台湾、シンガポールの華人が中国沿岸部、東南アジアへ大規模な投資を行い、巨大な華人経済圏を形成。
1997~1998 アジア通貨危機・経済危機が華人経済圏を直撃