薩英戦争
出典: Jinkawiki
1858(安政5)年、江戸幕府はアメリカと結んだ日米修好通商条約に続き、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結んだ。これにより、横浜・長崎の開港場で外国人に土地が貸し出され、中でも横浜の外国人居留地には貿易商人をはじめとする多くの外国人が生活し、彼らは日本国内を従来するようになった。しかし、尊王攘夷派の中には、それを神州の地を汚すものと不快に思うものもいて、やがて京都を中心に横行していた暗殺、「天誅」の風潮とも重なり、外国人を殺傷したり、イギリス公使館を襲撃したりするという事件が相次いだ。このような中、生麦村で、幕府に政治改革を約束させたあと、京都へ向かう薩摩藩の島津久光の行列と遭遇したイギリス人が、薩摩藩士に殺傷される事件が起きた。(生麦事件) 事件の犯人処刑と賠償金の支払いを求めるイギリスに対して、薩摩藩はそれを拒否した。このことから、駐日代理公使ニールはついに艦隊の派遣決断し、鹿児島湾(錦江湾)において両軍が交戦する事態となった。 1863(文久3)年7月2日、薩摩藩の砲撃で戦端の開かれた戦いで、薩摩藩は軍艦3隻などを失い、さらに、鹿児島市街の約1割を消失した。一方、クーパー提督率いるイギリス艦隊も、旗艦ユーリアラス号の艦長と副長らが戦死した。4日、当初の目的を達成することなくイギリス艦隊は鹿児島湾から引き上げた。 戦闘の勝敗も不明のままイギリス艦隊が引き上げた理由については、石炭、食料、弾薬などの供給不足が要因の一つではないかと言われている。
参考
・蔵 敏則 「新説 戦乱の日本史 第40回」 2008 小学館
・岸 祐二 「手にとるように日本史がわかる本」 2001 かんき出版