蛮社の獄
出典: Jinkawiki
江戸後期、洋学者に対する弾圧事件のことである。「蛮社」とは蛮学社中の略。これにより、1939年12月渡辺崋山には国元田原における蟄居、高野長英には永牢の判決が下された。やがて二人も自殺に追い込まれたが、この事件は蘭学・蘭学者が弾圧を受け、そこに幕府内における守旧派と開明派との対立が見られた事件であるといえる。
事件の内容
1825年(文政8年)、異国船打払い令(無二念打払い令)を出し、日本沿岸に来航する外国船を撃退するという日本の姿勢は、欧米列強の勢力が日本近海に迫っている状況に即していないものであった。1837年(天保8年)アメリカのモリソン号が漂流民の送還を兼ねて、日本との通商を交渉する目的で浦賀に来航した際に、浦賀奉行所は異国船打払い令に従って砲撃し、退去させたというモリソン号事件が起こった。これに対し、漂流民を送還してきた外国船を、その来航の目的も聞かずに打払ったことから、三河国田原藩家老で洋学者の渡辺崋山は「慎機論」で、陸奥水沢出身の医師で洋学者の高野長英は「戊戌夢物語」を書いて、日本を取り巻く国際情勢から、幕府の政策を厳しく批判した。 これに対し幕府は、洋学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門と、洋楽に反感を持つ目付で林述斎の子である鳥居耀蔵に江戸湾防備について別々に調査と立案を命じた。この過程で生じた軋轢(江川が渡辺崋山を支持していたこと)から、鳥居らは尚歯会に集まる洋学者の弾圧に乗り出し、渡辺・高野らが小笠原諸島への渡海を計画していたとして1939年5月逮捕し、モリソン号事件に関する幕政批判の罪で二人を処した。これを蛮社の獄という。
事件の背景
事件の背景には、洋楽の隆盛に対する林家を中心とする儒学者の反発・反感があった。幕府役人の中にすら洋楽を学び親しむ者が現れるほど、知識人の間に広まりつつあった。幕府の幕政に重きを置いていた大学頭林述斎らはこの状況に反発した。そこで、洋学者の弾圧に乗り出した。小笠原諸島への渡海をでっちあげて二人を逮捕した。しかし、証拠は挙げられず、小笠原諸島渡航計画の容疑は晴れたが、幕政批判の罪は重く、処罰にもっていった。これにより、これ以後の洋楽は医学・兵学・地理学など実学としての性格を強めた。
引用文献
佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖(編) 2008 詳説日本史研究 改訂版 山川出版社
渡邊靜夫 1988 日本大百科全書19 小学館