覇権国家
出典: Jinkawiki
覇権国家の歴史
封建制度下での人口増加や商業の展開には限界があり、12・13世紀と拡大を続けた北西ヨーロッパの経済は、14世紀に入ると逆に急激な衰えをみせた。黒死病(ペスト)や戦災により生産は停滞し、領主と農民の取り分をめぐる闘争が激化した。この危機を完全に乗り切る方法は、「分け合うもとのパイ」を大きくする他なく、その対策として「近代世界システム」が生まれ、急速に進展し現代にまで至る歴史潮流となった。世界システムの歴史においては、時に超大国「ヘゲモニー(覇権)国家」があらわれ、農業・工業だけでなく世界商業の覇権や世界金融をも握る。しかしこのような国はこれまでの歴史上3つしかない。その1番目が17世紀中ごろのオランダ(ネーデルラント)であった。(あとの2つは、19世紀中ごろのイギリス「パクス・ブリタニカ」とヴェトナム戦争前のアメリカ。)15世紀末に成立した、ヨーロッパを中心とする世界システムは、16世紀を通じて拡大するが、1620年代を境にしていっきに下降に転じる。地理的にも、コロンブス以来の膨張が止り、かつアジア貿易は1650年代までに日本と中国がヨーロッパ人に対して門戸を閉ざすこととなり、発展性がなくなった。そのため当面ヨーロッパを中核とする近代世界システムは、「大西洋経済」の確立に賭けざるをえなくなる。 この時代、オランダ人やイギリス人の間で、「母なる貿易」と呼ばれていたのは、北欧を含むバルト海域との貿易であり、世界をまたにかけた貿易を展開するにも船舶がすべての時代であった。オランダにはすぐれた造船技術があり、少人数で大量の積み荷を運搬できる新型「フライト船」を発明し、バルト海域の優位を確立した。
オランダの覇権国家
オランダが海上を支配していくにつれて、アムステルダムの海運業の保険料率も他国の追随を許さぬほど低くなり、それがさらに圧倒的に有利に働いた。フランスがカリブ海で生産した砂糖も、バルト海域に送るためにはオランダ人の手を借りざるをえなかった。世界システムの中心となったアムステルダムには、世界中の資金が流れ込み、世界的な金融機構が確立されていく。こうしてオランダは覇権国家となっていきました。アムステルダムは、たちまち西ヨーロッパ最大の人口を誇る世界のメトロとなった。覇権国家では、その政策や背景となる考え方の点でも特徴的な側面があらわれた。他の中核諸国が重商主義的な保護政策をとることによって、自国の経済圏を維持しようとするのに対して、覇権国家にとっては自由競争が圧倒的に有利になる。この自由主義は、経済活動の側面のみならず社会・政治・宗教など多方面に影響をあたえずにはいられなかった。結果としてオランダに亡命者や自由な文筆家、芸術家が集まってきた。17世紀のアムステルダムは、のちのロンドンやニューヨークと同様に最先端の文化現象のみられる世界の文化センターとなり、世界のメトロは、同時に世界の吹き溜まりでもあった。世界システムの覇権を握ったオランダでは、救貧・福祉のレベルがあがり、「都市雑業」と呼ばれる使い走りのような仕事から洗濯・物売り・物ごいの類いといった雑多な職種によって、貧民もなんとか食いつなげたという環境もできあがったのだ。
参考文献
・加藤 祐三, 川北 稔『<世界の歴史25>アジアと欧米世界』(1998/中央公論社)
・石見徹(2011) 『近世の覇権国と通貨基金』東京大学大学院経済研究科
P.N.baz