豊臣秀吉1
出典: Jinkawiki
豊臣秀吉[1537(天文6)~1598(慶長3)] 享年62
・秀吉の生い立ち
尾張の国中村の農民である木下弥右衛門の子として生まれたとされる。秀吉が幼少の頃に父・弥右衛門は亡くなり、その後、母は再婚するが養父との折り合いが悪かった秀吉は家出。その後、諸国を放浪して、この頃、尾張の支配を固めつつあった織田信長に仕官。しかし当初は雑役に従事する小者としての採用だったという。少壮時代、薪奉行として薪の一年間の消費量を割り出し、これまでの三分の一で済むことを明らかにしたとか、清洲城の塀の修理を十組に分けてやらせ、たった一日で成し遂げたという話が『太閤記』に記されている。
・信長の信任を得て出世
農民の子として生まれた秀吉が確かな資料に登場するのは、1565年(永禄8)。20代半ばの頃のことだ。翌年、信長は美濃攻略に本腰を入れる。そのためには長良川彼岸の墨俣に砦を築かなければならなかった。目の前に敵を見ながら砦を築き、そのうえこれを守らなければならない。佐久間信盛、柴田勝家といった猛将でさえ失敗した困難な事業であった。この難役を成功させたのが秀吉だった。これを機に、秀吉はそれまで以上に信長に重んじられ、秀吉もまた期待に応えた。また、1570年に信長が越前に侵攻した時、一軍の将として従軍している。この時は同盟者の浅井長政に裏切られ、織田軍は挟撃されて絶体絶命のピンチに陥るが、この時撤退戦でしんがりを引き受けて、味方の軍を無事に京都まで逃すのに成功。この後の姉川の戦いで、秀吉の活躍も目立つようになる。そして、1573年その浅井氏が滅亡すると、秀吉はその旧領である北近江の三郡12万石を与えられ、長浜城の城主となった。念願の城持ち大名になったうえ、筑前守という官位まで得る。この時から名を木下闘吉郎から、羽柴秀吉に改めている。秀吉、37歳。
・兵糧攻め
秀吉が最も得意とした城攻めは、兵糧攻めという経済的な方法である。鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻め、そして小田原城攻めなどが代表的な例である。
・鳥取城攻め
秀吉は城攻めに先立って、鳥取近辺の米を高値で買わせる。城主吉川経家が籠城のため兵糧を集めようとした時には、近辺の米はわずかにしか残っていなかったのである。その後、二万を越す大軍でびっしりと鳥取城を取り囲んだ。戦闘らしいこともなく、三ヵ月余りで鳥取城は開城する。食料のなくなった城内では、死者の肉さえ争って食べるという凄惨な有様になっていたという。結局秀吉は、味方の兵をほとんど失うことなく大勝利を得たのである。
・高松城水攻め
天正十年(1582)、西での信長の最大の敵は中国地方に覇を唱えていた毛利家だった。配下の武将が担当方面を受け持つ織田家にあって、中国地方を任されたのは秀吉である。高松城の包囲は4月27日には完了したが、城将・清水宗治ら高松城に籠城した兵が見たものは、合戦とは程遠い、大土木工事だった。5月7日、本陣を石井山に移した秀吉は、大崎山・立田山・鼓山・吉備中山などに各武将を配置し、その上で全長三キロ弱に及ぶ長大な堤を構築したのである。8日から始められたこの「工事」は、土俵一俵ににつき米一升と銭100文を支払うと触れを出し、近在の農民たちも動員してわずか十二日間で完成させるという突貫ぶりだった。秀吉はあらかじめ足守川及び付近の川水をせき止めさせており、堤防の完成を待って堰を切って落とした。折しも梅雨時である。しかも高松城の周囲には湿地が多い。城の周囲は見る見るうちに水に浸され、城内各所も浸水したという。この奇策の前に城兵の戦意は次第に挫かれていった。またも味方の兵を失わずに勝利を収めたのである。
・小田原城攻め
秀吉が関白宣言を受けて従一位となったのは、天正十三年(1585)7月のことである。さらにその翌年には太政大臣に任じられ、秀吉は位階を極めた。この間、関白就任にあたり、秀吉は近衛前久の猶子となって藤原姓を名乗り「羽柴」から「豊臣」へ改姓している。このとき、なお臣従の例をとらない者もいた。それが小田原の北条氏政・氏直父子である。秀吉は、小田原城攻めに備えて、長束正家を奉行に任命し、兵糧の確保と運搬に任命した。蔵入地の米20万石を駿河の江尻城と清水城に移すこと、金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で米を買い、小田原の近くまの港まで運ばせること、馬二万頭分の飼料もととのえること、というのがその命令である。このとき秀吉の率いた軍勢は、26万といわれる。それほどの人間でも、これだけの米を集めれば、一年間は持つ。秀吉は、まず各所にある支城を攻略し、次に小田原城をびっしり取り囲んだ。そして、悠々と時を過ごすのである。秀吉は淀殿を呼び寄せ、大名たちにも国元から妻を招かせる。しばしば茶会が催され、囲碁や舞曲に興じる者もいた。これまで上杉謙信・武田信玄が攻めかかった時もひたすら籠城することで敵を退散させた。しかし、相手にこのように出られると、打つ術がない。籠城三ヵ月にして、北条氏直は降参してしまうのである。
・「中国の大返し」
水に沈みつつある高松城は落城間近。やがて明智光秀の軍勢が援軍に到着し、信長もまた大軍を率いて合流するはずだった。しかし本能寺の変が起こり、信長が殺されたことで、高松城主・清水宗治の切腹を条件に和平交渉をまとめ、毛利との講和が成立すると、主君の仇を討つべく、明智光秀の軍勢と戦うために軍を東へ向ける。この時の驚異的な行軍スピードは「中国の大返し」とも呼ばれ、後々の語り草にもなっている。
・ついに天下を平定
山崎の戦いで信長の仇を討った秀吉は明確に権力奪取に向かって動き出す。跡目問題で対立した柴田勝家との争いも賤ヶ岳の戦いで倒す。天下統一でもっとも警戒した相手は徳川家康だった。小牧・長久手で激突したが、長期戦を嫌った秀吉は外交での決着を図り家康と和睦。その後、土佐の長宗我部元親を降し四国を平定。越中の佐々成政も降伏させる。朝廷より関白に任ぜられ秀吉は、天下統一の仕上げにかかる1587年に大軍を擁して島津を攻め、九州を平定。1590年には小田原の北条氏を降した。さらには伊達氏ら奥州諸氏も服属させ、ついに全国平定。主君信長でさえ達せなかった偉業を成し遂げたのである。60歳に手が届く頃であった。
・天下人・秀吉の政策と晩年の愚行
全国を平定した秀吉は、一方でさまざまな諸政策を推進し、封建制度の基盤を確立している。特に注目すべきは太閤検地だろう。全国規模で統一基準のもとに行われた初めての検地であり、全国の石高が確定、安定した税収が可能となった。また、刀狩で、兵農分離を徹底、江戸時代の身分統制の原型を確立した。しかし軍事・政治の両面で強力なリーダーシップを発揮した秀吉だったが、晩年になると判断に精彩を欠き、独裁者的な思考が強くなる。甥で養子の秀次を側室を含めた妻子39名とともに処刑するなど、かつての寛容さは消え、残忍な処断が目立つようになった。二度にわたる朝鮮出兵は、七年に及びながらなんら得るものなく、秀吉細大の愚行と呼ばれた。秀吉は二度目の朝鮮出兵の最中、伏見城にて逝去。死期を悟った秀吉は、五奉行と五大老の制度をつくり後事を託したが、朝鮮出兵で諸大名の多くが過酷な軍役で疲弊、秀吉死後の豊臣政権は弱体化した。関東移封を理由に渡海しなかった家康が、やがて豊臣氏にとって代わることになる。
-露と落ち露と消えにし 我が身かな なにわの事も夢のまた夢- 【辞世】
参考文献・出典
歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 (学研)
歴史群像シリーズ 図説・戦国合戦集 (学研)
日本史1000人上 (世界文化社)
戦国武将最強は誰だ? (一水社)