豊臣秀吉2

出典: Jinkawiki

豊臣秀吉2

目次

豊臣秀吉

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) 1537~1598 尾張中村の生まれ。地侍木下弥右衛門の子藤吉郎。今川氏の部将、松下嘉兵衛に、のち織田信長に仕え羽柴秀吉(はしば ひでよし)と名乗って、近江浅井氏の旧領の長浜城に拠る。本能寺の変後、1582年、山崎の戦いで織田信長を自殺に追い込んだ明智光秀を山崎天王山で破った。四国平定、九州平定、小田原攻め、奥州平定を経て全国を平定。大坂城を築城し、惣無事令を発し、聚楽第を造営。後陽成天皇より豊臣の姓を賜る。検地・刀狩などで全国統一を推進。朝鮮出兵に失敗して病死した。

大坂城

大坂城(おおさかじょう) 石山本願寺の旧地に秀吉が1583年に築城。難攻不落の名城といわれたが、1615年、大坂の陣で落城。徳川氏が再築したが、幕末に焼亡した。現在の天守は1931年に復興したものである。

惣無事令

惣無事令(そうぶじれい) 豊臣秀吉が戦国大名に下した戦闘の停止と領地の確定を秀吉に委任させる命令。1585年、豊臣秀吉の関白就任後、九州で発し、翌年には関東・東北の全領域に及ぼされた。島津氏・北条氏などは、この命令に反したとして討伐を受けた。

聚楽第

聚楽第(じゅらくだい) 豊臣秀吉が大内裏跡に造営した城郭風の邸宅。1588年、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、ここで徳川家康以下諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。

小田原攻めと全国統一

小田原攻め(おだわらぜめ) 四国の長宗我部氏と九州の島津氏を降した豊臣秀吉は、関東を支配する北条氏直に降伏を勧めたが応ぜず、1590年、大軍で小田原城を包囲し、3ヵ月後、北条氏直を降伏させた。すでに伊達政宗らも豊臣秀吉に巨従しており、ここに全国統一が達成された。

太閤検地

太閤検地(たいこうけんち) 豊臣秀吉が行った検地。豊臣秀吉は1582年(天正10)以来征服した大名の領地に次々に検地(天正検地)を実施。全国統一後、1594年(文禄3)改めて6尺3寸=1間の検地竿を用い、京枡に統一するなどの検地条目を定め、検地奉行を送って全国に実施(文禄検地)。

参考文献

[浜島書店編集部著『新詳日本史』株式会社浜島書店] 豊臣秀吉成功へのヒント [1]

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