賀川豊彦
出典: Jinkawiki
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1.賀川の新川のスラム入り
賀川は当時スラムと呼ばれていた新川での働きを「救霊団」と名づけた。あくまでも賀川の目的は、新 川の住民の霊魂の救済であり、貧困からの救済ではなかった。賀川の新川入りの理由は、彼が早くから強く志していた伝道の志の実現を目指すものであったというべきで、新川の住民の救貧問題に直面するのはその直後のことである。賀川は1909年12月に新川に入って居を構え、その後、関東大震災でもっとも甚大な被害を受けた場所の救援のため東京に移るまで新川を離れなかった。
2.賀川と労働運動
賀川は救霊・救貧という方向性に限界を感じ、救貧より防貧へと新しい道を歩むこととなる。その具体的な展開がアメリカ留学中に必要性を痛感した労働運動である。賀川は、なぜ新川のようなところに入る人が絶えないのかを考えた。当時、平気で首を切られ、過酷な労働条件のもとで苦しむ労働者階級の問題であることを見出したからである。 賀川は帰国して4ヵ月あまり後の1917年9月に、日本における労働運動「友愛会」と最初に接触した。賀川は友愛会に参加すると同時に友愛会を近代化、戦闘化し、組合運動の実質化を図ったのである。そして彼は、今までのように労働者はただ調停に任せるという時代ではないことを訴えた。スト権などを禁止する「治安警察法第十七条」の撤廃を求め、八時間労働制を要求するなど、今までの友愛会の方針を覆した。各地域の労働者自身が立ち上がらなくては、これからの労働運動の展開はありえないと判断し、各支部に主体性を重んじ、理事による運営を目指した。労働組合員のために「自由組合論」という書も記した。 1921年6月、「前年から起こっている世界恐慌の打撃を労働運動の主舞台である造船業、金属工業であった。」と言われていた。賀川はその造船業の盛んであった神戸の友愛会で、神戸の三菱造船所・川崎造船所大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫す。これを契機に関西の友愛会において、警官との衝突や工場内の機械破壊のような暴力行為に及ぶサンディカリスト(労働組合が一切の政党活動を排除し、直接行動によって産業管理を実践し、社会改造を達成しようとする立場)の勢力が増していった。自由を得るためには官憲の力に対して力で、そのためには暴力も辞さない。という立場に追い込まれた労働組合の主流から賀川は次第に距離を置くことになる。賀川の非暴力、平和主義は彼のキリスト教信仰からの要請であり譲ることの出来ないものであったためである。
3.賀川の農民運動への参与
労働運動でもまた限界を感じた賀川は、「何故このような過酷な労働状況にも拘わらず労働者が増えるのか。それに日本の農村問題がある、貧困な農村の次男、三男は農村にとどまることが不可能である。都市に流れ込んで働かざるを得ない。そこで不景気に左右され失業したものは新川のようなスラムに入り込む。新川を生活の原点とした賀川にとって、新川の防貧対策は、労働問題、農民問題へと発展的に結びつく。このように賀川は絶えず傷ついている人のところに走りより、その傷を癒そうとした、と語られた。 1920年米価の暴落等によって、困窮していた農民の起こした小作争議は激増している。当時農村では、一定の限られた零細な土地から、最大限の努力により、勤労により、多くの収穫を得ることを良しとする「農本主義」が根深くしみこんでいた。その結果多額の効率小作料や飢餓に苦しめられ、非人道的な人身売買も正当化されていた。農民は人間らしいいきかたからも疎外されていたことになる。賀川は農民に労働者としての人格回復を願った。 1922年、協力者杉山元治郎とともに日本農民組合を設立。組合は急速に発展し、3年後の1925年末には組合員数は7万人を超えた。賀川は1926年労働農民党結成に当たって執行委員に就任するが、日本農民組合に対抗し官憲、地主が高圧的な力による支配に出たので、また力で対決しようという考えが組合にも生まれる。賀川と杉山の非暴力主張により組合内部において内部抗争が生まれ、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。
4.関東大震災に立ち向かう賀川
1923年9月1日関東大震災が発生。翌日賀川の耳にも知らされた。そして3日には、実際に被害状況を自分の目で確かめるため、神戸を発った。調査を済ませ神戸に帰った賀川は数多くの講演をし、関西一円の教会に震災被害の報告会を開き、援助を呼びかける努力を行う。その間当時の金で7500円集めたとのことである。 しかし賀川は教会の反応の鈍さに「神戸の海員組合はわずか数千の会員しかもたないのに、二万円近くの金を集め、大阪の関西労働同盟会はわずかに4000ぐらいの会員しかないのに、労働者ばかりで5千円近くの金を集めている。それに比べ教会はクリスマスや会堂建築に発狂するくらいに金をだす。私は本当に教会の教育の根本的に誤っていることを痛感せざるを得ない」と批判を加えている。 賀川は2回青年を派遣して救援物資を東京まで運ばせる。2度目の上京の時、賀川は本格的に震災後の東京に未を置いて防貧に、救貧に励むことを心に深く決するとこがあったのかもしれない。「わたしのようにお金のない者は善き隣人として被害者にお近づきになるより仕方ない。この冬を通して被災者の困苦を自ら体験し、苦悩を自らも一緒に味わい、それを科学的に調査して世間にうったえることである。」賀川のこの志を共に担いたいという人々も多かった。この時賀川は連日連夜講演の日々であり、押しもおされぬ著名人となっていた。
5.賀川の14年間を振り返って
賀川が東京に移ってからというものは、ただ試行錯誤の連続であった。先に触れたように彼は救貧の限界を肌で知り、救貧より防貧へと変化する。その具体的展開として救霊という願いをこめながら労働運動・農民運動に献身する。それがこの十四年間だった。新川に飛び込んだときの賀川を考えると14年後の賀川は多くの苦難に満ちた経験をつみ、格段の成長を見せている。 大正デモクラシーといわれた時代は賀川にとって最も活動しやすい時だったのかもしれない。新川の貧しい人たちとの生活に始まり、アメリカ留学、日本労働・農民運動における活躍、さらに『死線を越えて』を始めとする膨大な著作を考えてもそう言い得る。 賀川はそのすべてを救霊と救貧・防貧を分けることなく、人間そのものの救いのために苦労したということに違いはない。
6.参考文献
・雨宮栄一(2005)『貧しい人々と賀川豊彦』新教出版社 340pp
・武藤富雄(1981)『評伝・賀川豊彦』キリスト新聞社 364pp
・隅谷三喜男(1995)『賀川豊彦』岩波書店 228pp