辛亥革命2
出典: Jinkawiki
辛亥革命とは
辛亥革命とは1911年(宣統3年)から1912年(民国元年)にかけて、中国で発生した革命である。名称は革命が発生した1911年の干支である辛亥にちなむ。清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、革命軍は帰国した孫文を臨時大統領に選出し、1912年1月、南京で共和制国家である中華民国を宣言し、アジア初の共和国が誕生した。
時代背景 義和団事件後の清朝は、科挙の廃止(1905年)、立憲制へ向けての憲法大綱の発表と国会開設の公約(1908年)など、近代国家の建設に向けて改革を踏み切った(光諸新政)。しかし清朝の新政は、改革にともなう増税やその中央集権的な性格のゆえに、地方の有力者や民衆の反発をまねいた。一方海外では、華僑や留学生を中心に、漢族による清朝の打倒をめざす革命運動がさかんになっていた。興中会を指導する孫文は、ばらばらであった革命諸団体の結集をはかり、1905年に日本の東京で中国同盟会を組織した。中国同盟会は、満州王朝の打倒、共和国の建設、貧富の差の抑制を内容とする「民族・民権・民主」の三民主権をかかげて革命宣言や武装蜂起を行った。
はじまり 1911年、満州皇族を中心として成立した内閣は、幹線鉄道を国有化し、それを担保に外国からの借款をえようとしていた。外国からの利権を回収して民営の鉄道建設をすすめようとしていた民族資本家や地方有力者は、国有化に猛反対し、四川で暴動がおこった。これをきっかけに、10月に武昌(湖北省)の軍隊の中にいた革命派が蜂起し、辛亥革命がはじまった。蜂起はたちまち各省に広がり、一か月のうちに大半の省が独立した。
その後 清朝は、北洋軍をにぎる実力者袁世凱を起用して、革命側との交渉にあたらせたが、清朝に見限った袁世凱は、新帝の退位と共和政の維持を条件に、孫文から臨時大統領の地位をゆずりうけ、北京で就任した。1912年、2月の宣統帝(溥儀)の退位により、二千年以上にわたる中国の皇帝政治はおわりを告げた。しかし共和政は安定せず、議会の力をおさえようとする袁世凱と、これを抵抗する孫文の国民党とは激しく対立した。孫文らの武装蜂起(第二革命)を鎮圧して正式大統領の座についた袁世凱は独裁をすすめ、みずから帝位につこうとした。しかし、国民党系の地方軍人がおこした第三革命や諸外国の不支持により、帝政復活は失敗し、袁世凱は失意のうちに病死した(1916年)。袁世凱の死後は、列強の支援を受けた軍閥が各地に分立して、たがいに抗争しる不安定な軍閥政権が十数年にわたって続いた。 中華民国は、清朝の保有していた漢・満・モンゴル・チベット・ウイグルなどの諸外国が居住する市域をその領土としたが、辛亥革命を機に周辺部では独立に向かう動きが起こり、1911年には外モンゴルが独立を宣言し、1913年にはチベットでダライ=ラマ13世が独立を主張する布告をだした。しかし1924年にはソヴィエト連邦の影響のもとモンゴル人民共和国を成立させた外モンゴルを除き、その他の地域は中華民国のなかにとどまった。
科挙 科目による選挙のこと。官僚へ登用するための手続き。儒学によってひろく人材を求める試験制度。
華僑 中華人民共和国の中国共産党政府の定義によると「中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称である。
興中会 孫文が、1894年にハワイで華僑を中心に組織した政治的秘密結社。
北洋軍 李鴻章が、淮軍を基盤として洋務運動期につくりあげた近代的軍隊。
国民党 中国同盟会を中心としてつくられた政党。
軍閥 有力な軍人たちは中央の統制に従わず、みずから財源を確保して詩的軍隊をやしない、政治を左右するようになった。このような軍人やその集団のこと。