進化論
出典: Jinkawiki
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進化論とは
生物はその形態のみならず、生理、行動、生態にわたり著しく多様であり、しかもそれぞれの生物はその生活環境にうまく適応して生きているかにみえる。この多様性と適応性を、地球上で生物が誕生して以来、長い時間経過のなかで動的に変化・展開してきた過程として説明する試みを、広い意味で進化論あるいは進化理論という。
ヒトを含めた生物の由来への関心は、いわゆる創世神話をはじめ多くの例にみることができる。われわれが何であり、どこからきたのか。この問いかけの動機とその答えへの納得が一般にはいまも進化論を背後から貫いている。しかし、そうした由来についての「神話的説明」や神学的、宗教的説明を排除し、近代になって進化論が科学理論としてそれなりに確立してきているが、不明な点、つまり明示的に説明されるべき論点がいっそう増えてきたことも確かであり、それらの問いへの答えは未来に向けて開かれている。
ダーウィン以前の進化論
進化とは、生物が時間とともに変化して、ことなった種類の生物になることである。生物が変化するという漠然とした認識は、古代ギリシャの自然哲学や東洋の輪廻転生的な自然観にもうかがうことができるが、歴史的な過程として、進化の認識が成立するのは、18世紀以後のことである。地質学が地球の変化を明らかにし、古生物学がことなった地層からことなった化石をみつけだし、比較解剖学が生物の構造には種をこえた共通性があることをしめし、発生学が卵から複雑な器官が形成される過程を、生物地理学が世界各地の生物相の特異性を明らかにするにつれて、あらゆる事柄が進化の事実をさししめすようになった。
こうした状況の中で、進化論的な発想の先駆けとなるものが、いくつかあらわれた。たとえば、ジョフロア・サンティレールやリチャード・オーエンが提唱した動物の器官の相似や相同という概念は、共通のプランからの進化を前提としていたし、フォン・ベアは、ヘッケルに先だって高等動物の初期胚が下等動物の成体に似ていることを指摘していた。また、反進化論者として有名なキュビエも、神による創造という枠内で、天変地異による新種の出現をみとめていた。そのほか、モーペルテュイやビュフォンも進化論的な考え方を公然と表明していた。
ダーウィン以前の体系的な進化論者として特筆すべきは、エラズマス・ダーウィンとラマルクである。エラズマスは、チャールズの祖父で、著書「ズーノミア」(1794~96)において、フィラメント状の原始生物からすべての動物が進化したことを明確にのべたが、進化の要因を環境の変化に対する動物の反応にもとめていた。ラマルクの進化論は、著書「動物哲学」(1809)にのべられていて、それによれば、生命は常に自然発生しており、その内在的な能力によってしだいに成長・複雑化していくという。さらに、環境への適応としてつかわれる器官が、獲得形質の遺伝を通じて発達することによって、生物の多様性がますと考えた。後世、この後者の点のみが強調されることになり、ラマルク説=獲得形質の遺伝とみなされるようになった。
ダーウィンの進化論
進化を裏づける証拠が蓄積されていったにもかかわらず、進化論はなかなか受容されることがなかった。その背景のひとつとして、すべてを神の創造に帰すキリスト教的な世界観、多様な生物の世界を静的な存在の連鎖とみなす中世的な世界観があった。また逆に、進化論が社会的に受容されるようになった背景には、産業資本主義の発展、自由競争による社会の進歩という時代精神があったことは事実である。しかし、ダーウィンの進化論(厳密には、アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが同時発見者である)がそれ以前の進化論と一線を画し、最終的に社会にみとめられ、現代生物学の基盤となった最大の理由は、科学的な進化のメカニズムをはじめて提出したところにある。
有名な「種の起原」(1859)で、ダーウィンがのべている自然選択(自然淘汰)説の原理を要約すると次のようになる。あらゆる生物は、生存できる以上の子供をうむので、それらの子供どうしで必然的に生存競争が生じる。一方、子供の間には個体ごとに変異があるため、生存競争においては、より適応した性質をもつ個体が生きのこる。この過程の集積によって変種が生じ、変種が新しい種の発端になるというのである。ダーウィンの時代には、遺伝の法則はまだ発見されておらず、変異の原因も不明ではあったが、自然選択説は、生存競争と変異の組み合わせによって、神が介在しなくとも、種が自動的に進化するメカニズムを提示したのである。
ダーウィンの進化論は、社会進化論(→ 社会ダーウィニズム)や優生学といった形で、生物学以外の世界にも多大の影響をあたえた。また、生物学の歴史においても、人間をふくめてすべての生物を神秘の座から科学の対象にひきおろし、すべての生物現象を進化的適応という観点からみることを要請した点において、決定的な重要性をもっていた。