野口英世2
出典: Jinkawiki
野口英世は、日本の細菌学者で福島県出身。1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日の生涯であった。猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学の研究に主に従事し、黄熱病や梅毒等の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年5月21日、ガーナのアクラで51歳で死去。今では、千円札の顔となっている。千円札に使用される博士の肖像の写真は、1918年に中南米のエクアドルで黄熱病の病原体を発見した頃に撮影されたものである。この頃が、博士が研究者として最も脂がのっていた時期で、博士自身、知人へ写真を送る際に、好んでこの写真を使い、そこには直筆のサインをしていたのである。博士は野口家の長男でした。因みに、兄弟にはお姉さんと弟がいました。当時は、長男が家業(農業)を継ぐのが一般的でしたが、左手を火傷したため、力作業が伴う農業を諦めたのだ。博士は、幼少の頃から頭が良く、太陽の位置をみただけで時刻が分かったといいます。お母さんは、「自分の不注意で左手を火傷させてしまった」という慙愧の念を持ち続けていました。そのため、「左手の火傷のため、この子は家業(農業)を継ぐことは出来ないのだから、何としても学問で身を立てさせてやらなければならない」と決意し、自らが人の何倍も働くことにより、博士を家事から遠ざけ、勉強に集中させたのである。博士は明治初期生まれ(1876年/明治9年)の人物としては、生涯にわたり数多くの写真が現存していると言われています。そうした数多く残る博士の写真の中で最も古いものは、1892年10月に博士が会津若松の会陽医院で左手の手術を終え、退院した帰りに親友の八子弥寿平氏(八子館長の祖父)と一緒に撮影したものです(これは、野口英世記念館に展示されています)。当時、写真は非常に高価なものであったため、貧しかった博士が写真を撮る機会はなく、手術を無事終えたことの記念として撮ったこの写真が初めてのものとなります。
博士の左手は手術しても完全に自由になったわけではなく、「手は指あって尊しとす 指は節あって全うしとす」(=手は指があってこそありがたいものであり 指は節があってこそ完全なものだ)という13歳の時に記した左手を意識する気持ちは生涯消え去ることはありませんでした。そのため、博士は写真を撮るときに、左手が写らないようにしていたようですが、博士の人生をみていると、そうした左手を常に意識していた気持ちが、博士の偉大な功績に繋がる原動力となったようで、人生とは分からないものだ。
野口英世 イザベルR.ブレセット著 中井久夫、枡矢好弘訳 星和書店 1987,2 野口英世 小泉丹著 岩波書店 1939,7