銭湯
出典: Jinkawiki
銭湯は『慶長見聞集』によると、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19(1591)年の夏、伊勢の与市という男が銭瓶橋のほとりに銭湯風呂をたて、永楽銭一文で入浴させたことに始まる。このころはまだ蒸し風呂であり、湯に入るようになるのは、のちのことだ。その後湯女(ゆな)を置いた湯女風呂ができ、一時は江戸中に200軒以上に増えたが、明暦3(1657)年に風紀上の理由からいっさい禁止された。 湯女風呂が禁止されていたが、江戸の銭湯の多くは男女混浴だったので風紀の乱れはなくならず、寛政3(1791)年の男女入込禁止令で混浴も禁止され、以後、男湯女湯の区別が厳しくなった。 江戸は風が強く埃がひどいので、人々には毎日入浴する習慣があった。そのため屋敷内に風呂を持つ武家以外の者は銭湯へ出かけていた。江戸は水が少ない上に薪代も高く、また火事を恐れたこともあって、豪商といえどもあまり自宅に風呂を持てなかった。 江戸時代以来、公衆浴場として庶民の間に広く普及していた銭湯は、庶民の保健衛生のためや、社交場としての役割も担ってきたが、1970年(昭和45年)ころから自家風呂が普及しだし、その数は減少し続けている。
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参考文献
「図説江戸 町屋と町人の暮らし」監修平井聖