関ヶ原の戦い
出典: Jinkawiki
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関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の戦い。
諸説
関が原の戦いの各軍の配置を見ると、東軍は西軍に囲まれるという圧倒的に不利な状況にあった。この圧倒的な差がうまれた原因を紹介したい。 西軍は、関が原を決戦場にするために、東軍より早く行動を開始した。行動し始めたのは夜であり、大垣城にあった西軍主力部隊は東軍に悟られないように、声を殺し、具足の草摺を縄で縛り、馬の口に枚を含ませ、蹄に藁束や布を巻きつけ、松明も灯さず、泥濘と化した道を進んだ。その結果、西軍は鶴翼の陣(鶴が翼を大きく広げて敵勢を押し包むように、関が原盆地を取り巻く小高い山や丘に軍兵を配し、敵勢をその内側に誘い込んで包囲殲滅しうる必勝陣形)をしき、万全の態勢を整えることに成功した。 大垣城にあった西軍主力が関が原に移動中と、東軍本営に飛び込んできたのは、西軍が移動開始してから7時間後だった。徳川家康は即座に追撃を命じた。しかし、正しく言うなら命じざるを得なかった。家康は、短期決戦を望んでいた。もし戦いが長期戦になれば、大阪城にある毛利輝元が徳川秀頼を奉じて出馬してくる可能性があった。もしこうなってしまえば天下取りの野望は水の泡と消えることになる。西軍将士の士気は高まるばかりか、家康が掲げる「秀頼の君側の奸・石田三成を討つ」という大義名分は崩れ、豊臣秀吉在世中から三成と反目・対立し、今は「三成憎し」の一念で家康に味方している福島正則、浅野輝政、加藤嘉明らの豊臣恩顧の武断派諸将も寝返りしかねない。 しかし、西軍主力部隊が移動を開始してから7時間後という情報入手の遅れに加え、夜間、雨、濃霧という悪条件が重なり、追撃した先鋒部隊が西軍の最後尾に追い付いた時には、西軍諸隊の戦闘員は所定の位置に布陣を終えようとしていた。この状態では、追撃戦に持ち込むのは不可能で、西軍に追撃される恐れから反転もできない。すでに布陣を終えている西軍に対抗するには、不利を承知で、西軍に対して急ぎ戦闘態勢を整えなければならなかった。こうして西軍は東軍を包囲することに成功した。
二つの裏切り
西軍が圧倒的な有利な状況で始まった戦いがなぜ東軍の勝利に終わったのか。それには二つのおおきな裏切りがカギになる。 一つ目の裏切りは吉川広家によるものである。吉川は毛利一族軍の軍権を握る人物だった。石田三成の作戦では、狼煙を上げることにより、徳川本陣の背後に布陣している毛利軍に合図を出し、強襲させるというものだった。しかし吉川は、毛利宗家当主・毛利輝元の無罪と領国の安堵を条件に徳川と不戦の密約を交わしており、毛利隊の前面に布陣してその動きを封殺していた。これにより、毛利隊、長宗我部隊、長束隊、安国寺隊は動けず、西軍敗北の一因になった。 吉川には、過去に娘の秀吉お目見え、屋敷への御成りを、吉川が望んだにもかかわらず、毛利氏の「取次」を務める石田三成はそれを認めず、さらに吉川の所領を毛利輝元に与えようと画策した事件があった。これが伏線にあり、反発して吉川は、黒田長政経由で徳川に接近していた。 二つ目の裏切りは小早川秀秋によるものである。小早川は両軍からある条件を提示され去就を決めかねていた。 東軍が提示して条件は、伏見城攻撃への参加などこれまでの行為をすべて不問にし、上方で二カ国を与えるというものでこの内応を承諾していた。 一方西軍は、豊臣秀頼が15歳にになるまでの間、小早川を関白にし、従来の領国・筑前に加え播磨一国を加増し、さらに家老の二人に10万石ずつの知行を宛がうとともに軍資金として黄金300枚ずつを贈ると約束していた。西軍のほうが魅力的だったが、徳川の催促射撃により、裏切りの采配を打ち振るった。この寝返りにより、他の4将も続いて寝返ったため、東軍は一気に形勢逆転した。 小早川は、第二次朝鮮出兵で総大将に就いたが、秀吉から軽率な行動を叱責され、転封・減封処分に遭う。それを小早川は「軍監・石田三成の讒言」と恨んでいた。また秀吉の死後、小早川は筑前名島36万石に加増される。これは秀吉の遺言というが、徳川家康の尽力もあったという。
参考文献
小池徹郎編 「グラフィック図解 関ヶ原の戦い」 2009年9月 学習研究社 M.S