関ヶ原の戦い2
出典: Jinkawiki
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関ヶ原の戦いとは
慶長5年(1600年)に美濃国を舞台に起きた豊臣秀吉の後の天下をめぐる争い。東軍と西軍に分かれた戦いとなり、東軍の総大将は徳川家康であり、西軍の総大将は毛利輝元 だった。しかし、西軍で実質的に指揮権は豊臣秀吉の家臣であった石田光成が握っていた。関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わり、三成は首を斬られ、家康は天下統一に至った。
勝敗を左右させた影の武将達
関ヶ原の戦いには多くの諸説があるが、その中で勝敗を左右させたとされる武将達を挙げる。1人目は鳥居元忠である。鳥居元忠は、家康が松平竹千代と呼ばれて今川氏の人質だった頃から側近の1人として仕えていた。慶長5年(1600年)家康が上杉景勝討伐のため会津に向かったため、元忠は伏見城を預けられた。この時点で家康・元忠共に伏見城が陥落することを覚悟していた。長年の付き合いであった元忠に死の選択をさせてしまうことに家康は戸惑いがあった。しかし、そんな家康に対し、元忠は「天下統一のために多くの人数を残すことは無駄であります。1人でも多くこの城から家臣をお連れしてくだされ。」といい、最期の日を深夜まで酒を飲んで過ごした。元忠は家康と別れた後、伏見城で光成の足止めに大きく貢献し、最期には自刃した。2人目は井伊直政である。直政は家康の家臣として仕え、関ヶ原の戦いの勝敗に大きく貢献した。美濃国での戦いが始まる前に、福島正則をはじめとした東軍の武将達は光成に妻子を人質に取られており、どちらに加勢するか揺れていた。しかし、直政の「儂は妻子を捨ててでも家康殿に加勢するぞ。」という一言で東軍の団結力が高まった。3人目は島津義弘である。義弘は西軍の武将として加勢した。義弘は武の力も優れていたが、頭もきれる人物だったため多くの策を光成らと練った。義弘が戦いの最中、光成に夜襲を仕掛けようと光成に提案をした。しかし、光成は「夜襲を仕掛けて家康に勝っても、そのような勝ち方では誰もついては来ない」として拒否した。そして、西軍が東軍をもう一息で追いつめられるとなった時、「他の隊をかえりみている暇はない。」として撤退した。この行動がなければ、勝敗はどうなっていたか分からない。
光成の最期
関ヶ原の戦いは西軍の裏切り多発による形勢逆転により東軍が勝利した。安国寺恵瓊らと共に光成は家康に捕まり、斬首の日を迎えた。光成は水分が欲しいと申し出た。その時、「水は与えられない。渋柿しかない。」と言われたが、光成は「渋柿は体に障る。大義を重んじる者は死ぬ時まで命を大切にするものだ。」といい渋柿を受け取らずに、死を迎えた。
参考文献
関ヶ原(上中下)(1974年)司馬遼太郎著