雑賀孫一
出典: Jinkawiki
雑賀孫一
伝説的な武将
雑賀衆といえば神話的な響きをもって語られる、戦国最強の鉄砲隊を抱えた集団だ。雑賀孫一はその雑賀衆を率いて戦った伝説的な武将である。 孫一とは、その雑賀衆の頭領の名前で、鈴木重秀という人物、もしくは重朝という人物のことではないか、などと諸説あるが、さらに孫一とは複数の人物ひとつになった集団の可能性すらある。ただひとつ間違いないのは、孫一に率いられた雑賀衆は、敵対する軍勢に非常に恐れられていたということだ。 紀伊国の一地域に割拠する小勢力にすぎない雑賀衆が後世に名を残したのは、ひとえに鉄砲のおかげだろう。早くから鉄砲を大量に導入し、射撃の腕に磨きをかけていたのだ。 孫一はこの精強な鉄砲集団を引き連れて、各地を転戦したという。さしずめ傭兵隊長といったところだろうか。この孫一の活躍として名高いのは、織田信長が本願寺を攻めた「石山合戦」だろう。 このとき雑賀衆は本願寺を支援することを決め、孫一は雑賀衆を率いて、難攻不落の要塞・石山本願寺に入り、一向宗門徒らとともに、籠城戦を展開している。 戦国大名の中でも一番鉄砲を使いこなしたように思われる織田軍だったが、それ以上に鉄砲戦術を駆使する孫一の雑賀衆には相当手を焼いたようだ。織田勢は攻めあぐね、石山本願寺をめぐる戦いは約10年間も続く。 そのあいだには、守る本願寺勢が逆襲することもあり、織田軍の砦を攻めた「天王寺の戦い」では、孫一の鉄砲隊の活躍もあって、救援に駆け付けた信長が足を撃たれて負傷する一幕すらあった。まさに孫一の率いる雑賀衆は本願寺の守護神的な存在だっただろう。
地方豪族の意地を見せた孫一
このような孫一ら雑賀衆の活躍に、信長は業を煮やしたと思われる。信長は、別の紀伊の土豪たちと手を組み、雑賀衆の本拠地に大軍を侵攻させた。大軍にものを言わせる織田勢だったが、雑賀川を挟んでの戦闘で、巧みな戦闘を展開する孫一の雑賀勢により、大きな被害を受けた。 孫一はこのとき足を負傷したが、勝利を祈って舞を踊ったといい、それが現代に伝わる雑賀踊りの原型となったと伝えられている。 しかし、この勝利をもってしても織田勢を撃退することはできず、膠着状態に陥った。これでは、雑賀衆の領土は荒れ果て、織田勢は他の戦線へ軍勢を回せない、お互い好ましくない状況だった。そのため、孫一ら雑賀衆の頭領たちが体裁上の降伏をすることで、戦に終わりが告げられる。だが、織田勢を相手に一介の土豪のこの活躍は、実質では勝利かもしれない。この後もしばらく雑賀衆は独自の地位を守っていたが、やがて大名や幕府による支配に組み込まれていく。それとともに孫一もどこかに消えていったのだった。
参考文献
カラー版徹底図解戦国時代 新星出版社
戦国武将完全ビジュアルガイド 株式会社カンゼン