雪舟
出典: Jinkawiki
1420(応永27)年に備中国に生まれた室町中期の禅僧画家。中国から渡来した水墨画の技法を自己のものとし、山水画を大成した画人として、日本美術史上の巨匠の一人とされている。和尚に叱られてお寺の柱に縛られ、涙でねずみの絵を描いたという逸話で有名。しかしこれには確証がなく、またこれを否定できる確証もないが、否定説が有力。没年は1506(永正3)年。
1430(永享2)年と翌1431(永享3)年に京都相国寺住持であった春林周藤(しゅんりんしゅうとう)に師事し、1454(享徳3)年まで同寺に居て、等楊という諱(いみな)を持ち知客(しか)という僧位に就いて禅定を修し、大功如拙の弟子の天章周文に同寺で絵事を教わったが、それ以前の画歴にはなお不明な点が多い。間もなく、愛蔵していた元の名僧楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を得たため、相国寺の友僧龍崗真圭(りゅうこうしんけい)に雪舟二字説を書いて貰って字としたが、南宋時代の詩人、楊万里(ようばんり)が書斎を釣雪舟と号していたことにちなむものである。1467(応仁元)年に周防国(現山口県東部)の守護大名大内教弘(のりひろ)の庇護により、遣明船「寺丸」で博多を出発し寧波(ニンポー)から入明して、翌1468(応仁2)年に北京で賜宴に与った。この北京では、皇帝の命により礼部院の壁画に筆をとり、広く賞賛を得た。また禅僧としても高い評価を与えられ、四明天童山の第一座である首座の職を与えられた。
その翌年1469(文明元)年に寧波経由で帰国。その後は諸地方を回って自然を観照した。当時の雪舟の居住地はしばらく不明であるが「鎮田滝図」が数十年前まで存在していたこと、豊後の画室について禅僧呆夫良心(ばいふりょうしん)が「天開図画楼記」なる一文を1476(文明8)年に作っていることから、大分に住んでいたといわれている。しかし「実隆公記(さねたかこうき)」には山口に住む三条公敦(きんあつ)の像を1479(文明11)年に描いたとあり、また同年着讃の「益田兼堯(かねたか)像」(重要文化財、益田兼施蔵)が遺っているため、その後山口に戻っていたといえる。この「益田兼堯像」は、大和絵的筆法が混じっていていささか異様であるといわれている。1481(文明13)年には美濃国正法寺に行き、翌1482(文明14)年は出羽国立石(りっしゃく)寺を写生、1483(文明15)年に京都を経て、1484(文明16)年に山口に帰っている。
1486(文明18)年に山口に雲谷庵を結んで本拠とし、同年そこを訪れた了庵桂悟は雪舟の画室の遊賞文を「天開図画楼記」と題して制作し、同年雪舟は「山水長巻」(国宝、防府毛利報公会蔵)を描き、越えて1490(延徳2)年には薩摩に帰る弟子の秋月等観に自画自讃の頂相(藤田美術館蔵)を与えている。さらに1495(明応4)年に自画讃の「破墨山水図」(国宝、東京国立博物館蔵)を円覚寺の如水宗淵(にょすいそうえん)に印可の証として付与し、翌年には「慧可断臂(えかだんぴ)図」(重要文化財、斎年寺蔵)を描き、京都に居る宗淵に返書を認めている。
「四季山水図」「秋冬山水図」「天橋立図」などが代表作として挙げられ、「四季山水図」(重要文化財、東京国立博物館蔵)は1486年の作品で、「日本禅人等楊」の落款と明王朝の末流者の鑑蔵印があり、当時の浙派(せっぱ)形式を学んだ入明中の研究作であり、15m以上に及ぶ長大な画面に四季の変化を描く山水画の頂点である。「秋冬山水図」(国宝、東京国立博物館蔵)は秋・冬の2幅からなる。山水画の古典たる宋元画への復帰を目指して南宋の夏珪の構図に学んで描いている。「天橋立図」は雪舟晩年の実景写生画で下絵として描かれたと言われている。その他に、71歳(1490年)の歳書である「四季花鳥図屏風」(重要文化財、尊経閣文庫蔵)などの数点の着色大画面作品があるが真筆の証明は容易でない。
雪舟は師の周文様式に立脚して中国唐絵を大胆に折衷したところに特色と価値があり、多くの弟子と祖述者が輩出して自然に雪舟派が形成された。雪舟派とは、雪舟等楊の画法を直接・間接に強く受継した画家への総称名である。雪舟等楊の直門はいずれも禅僧で地方に帰住し、また私淑者も地方人が多かったので、雪舟派は中央における画壇的流派ではない。安土桃山・江戸時代になっても雪舟等楊は画史上の第一人者として尊敬され、筆法を学ぶ者が全国的に多かったから、派閥こそ形成されなかったが、雪舟派の量質は絵画史上では最大であったと言われている。
雪舟は享年が87歳と長寿であって、中年以後の在住地は山口であり、多くの禅僧の詩文も雲谷軒在住時代の作品に対してであるため、雲谷軒時代が最も充実した作画時期であったといえる。
参考資料
日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会【編】 山川出版社