霜月騒動
出典: Jinkawiki
執権北条時宗の死去した翌年、1285年11月、有力御家人である安達泰盛とその一族が内管領、平頼綱らによって滅ぼされた事件。
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経緯
幕府の支配権が全国的に強化されていく中で、北条氏の権力はさらに拡大し、なかでも家督をつぐ得宗の勢力が強大となった。 それにつれて得宗の家臣である身内人と本来の御家人との対立も激しくなり、時宗の子の北条貞時の代になると、1285年に有力御家人の安達泰盛ら御内人代表(内管領)の平頼綱に滅ぼされた。
9代執権北条貞時の外戚である泰盛の勢力を恐れた頼綱ら御内人が泰盛一族を討伐し、二階堂氏・武藤氏などの御家人にも自害するものが多かった。 以後、内管領の専権が強まった。頼綱はやがて貞時に滅ぼされ、幕府は実権をにぎった。得宗の絶対的勢威のもとで、内管領をはじめとする御内人が幕政を主導した。 これを得宗専制政治とよび、全国の守護の半分以上は北条氏一門が占めて、各地の地頭の職もまた多くは北条氏の手に帰した。
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参考文献
「詳説 日本史」 山川出版社
「日本史B 用語集」 山川出版社
「読むだけですっきりわかる日本史」 宝島社文庫