静御前
出典: Jinkawiki
生没年不詳。源の義経の女妾。磯禅師の娘でもと京都の白拍子であった。義経が京都の堀川第で兄頼朝の刺客土佐房昌俊に襲われたとき、機転によって義経を助けた。以後、義経に従い大物浦から吉野山に逃れたが、山僧に捕らえられて鎌倉に護送された。鎌倉では義経の所在に関して厳しい訊問を受けたが、静かは固く沈黙を守ったという。 栗橋町では静御前は磯の禅師の一人娘として仁安3年(1168)に生まれたと言われ、白拍子と呼ばれる美しい娘だったいわれている。干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変困っていた時、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)京都神泉宛に舞姫100人を選び「雨乞いの舞」を命じた。最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り続いたと言う。後鳥羽上皇は静が15歳でありながら類稀な才能を賞嘆され褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を贈った。この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されている。このお寺はもともと栗橋町にあったものだが、利根川の流れの変化に伴い現在の古河市に移転したそうだ。また、お寺には、静御前が持ち歩いていたであろうとされる「持仏」や「鏡」も拝見することができる。本当にこれらのものが静御前のものであるのかは、いまだ分からないが栗橋町の静御前伝説を言い伝えるために何百年間もの間保管しているようだ。また、このお寺の近く旧総和に「思案橋」という名前の橋がある。これは、静御前が行こうか、やめようか思案した橋であると言い伝えられているために、この名がついたそうだ。平氏追討の功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことだったとされている。その後、義経は兄・頼朝の不興をこうむり、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびた。静は義経を追って京都を発ち平泉へ向かったが、途中の下総の国辺見付近で「義経討死」の方を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとした。しかし、重なる苦しみと}馴れない長旅の疲れから病気となり文治5年(1189)9月15日栗橋町で死去したと伝えられている。これをとって栗橋町では9月15日を静御前墓前祭とし、10月には静御前まつりが行われている。侍女・琴柱がこの地にあった高柳寺(現在・茨城県古河市中田町光了寺)に遺骸を葬ったが、墓のしるしのないのを哀れみ享和3年(1803)5月関東郡代中川飛騨守忠英が静女之墳の墓碑を建立したものと考えられている。境内にある「舞う蝶の/果てや夢みる/塚の蔭」という歌碑は江戸時代の歌人・坐泉がこの墓にきて静御前の亡きあとを思い歌ったものでそれを村人が文化3年(1806)3月に建立したとされている。 ~栗橋町の資料~ ・明治20年(1887)石碑「静女塚碑」が地域の人々の手で建つ →村人が、静のことを「雨乞いの舞」の舞姫として、また人間として後世に伝えたいという思いから建てられた ・明治22年(1889)町村制施行で新しい村役場が設立されたとき、名は「静か村」だった →静が定着する様子が伺える ~西日本型と東日本型~ 静御前の墳が一つだけでなく全国にあるとともに、各地に静御前の伝承があり、地域地域によって異なる。 西日本型 海辺に点在し、母(磯禅師)とのかかわりで伝えられているのが特徴 東日本型 街道沿いにみられ義経を追慕する伝承の内容。さらに、川・池などの水辺での伝説がよくみられ、水との関わりが深い →(水との関わり)大河における静御前伝説 ◎利根川・・・「茨城県古河市」光了寺 「埼玉県栗橋町」経蔵寺 「群馬県前橋市」養行寺 ◎ 常願寺川・・「富山県水橋町」畠等八幡宮 ① 全国の静御前遺跡 ・ 栗橋町伊坂 高柳寺 ・ 福島県郡山市大槻町大田 静御前堂 ・ 山形県南陽市小岩沢 地名 静御前 ・ 京都府磯野町磯 ・ 兵庫県津名町志筑
② 全国静御前伝説所在地 前にも述べたように、地域地域によって静御前の伝承は異なる。栗橋町の伝承にも、静御前のものとされる「蝦蟇龍の舞衣」「持仏」「鏡」があるが実際にこれらが静御前のものであるかは確かではない。これらが、本人のものなのかしらべようとしても資料はなく、あくまでも伝説として語ることしかできない。
参考文献:「吾妻鏡一」1976 監修・編著者 永原慶ニ・貴志正造 新人物往来社 「日本大百科全書10」1986 編集・出版者 渡辺静夫 小学館 「世界大百科事典」1988 編集・発行人 下中弘 平凡社 「栗橋町資料」