非暴力主義

出典: Jinkawiki

ガンジー

 インド西海岸ポルパンダールの名門の家に生まれたガンジーは、18歳の時、イギリスへ留学し、法律を学び、弁護士の資格を得て21歳で帰国した。24歳の時、インド人商社の顧問弁護士として南アフリカへ渡り、以後21年間をこの地で過ごした。ここでの厳しい人種差別に対する戦いの中で、後のインド独立のための長期の活動の基盤が彼の中に築かれていった。1906年、ズール一族の反乱に際し、ガンジーはインド人による衛生隊を組織し、イギリス側に従軍した。イギリス人のために傷ついた人々を連日手当するなかで、ガンジーの生涯を通じてんpよりどころの一つが確立した。

対英不服従・非協力運動

 第一次世界大戦のなか、インドに帰ったガンジーは戦時中はイギリスに協力した。しかし、イギリスが戦時中に定めた言論・思想・集会の自由を抑圧した法律を引き続き戦後も適用するという、ローラット法を実施したことに対し、全インド的な反対闘争をおこした。1919年4月6日、全インドが仕事を放棄、祈りと断食で対英不服従を決行した。さらに、法律を無視した声製塩運動や、禁止されていたガンジーの著作の販売などの不服従運動が展開された。また、イギリス商品の不買運動などの非協力運動もすすめられた。しかし、1922年、民雌雄による警官虐殺事件が起こると、ガンジーは心理把持の運動はあくまで非暴力の運動でなければならないとして非協力運動を中止した。

非暴力主義

 ガンジーの思想基盤である非暴力は、ただ単に敵対するものに不満を表明するだけの無抵抗主義ではなく、暴力以上の力になる武器であった。「受動的抵抗という言葉は、非暴力の誤った呼び方である。非暴力的抵抗は、暴力的抵抗よりもはるかに積極的なものである。」とガンジーは述べている。そのことは何よりも、彼の反政府運動による10回もの入獄が物語っている。「怯惰と暴力といずれか一つを運ばなければならない場合には、私は必ず暴力を運ぶようにすすめるだろうと信じている。」ともガンジーは述べており、非暴力臆病の違いを強調している。(yagi-zyunzou)

参考文献 「わたしの非暴力」森本達雄 みすずライブラリー 「ガンジー・自立の思想―自分の手で紡ぐ未来 池湧社


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