首里城
出典: Jinkawiki
首里城の歴史
琉球王国の時代の代表的であり最大の城(グスク)である。里城は、標高約120メートルの石灰岩丘陵に立地する。城の規模は東西約350メートル、南北に約200メートルの楕円形。正確な創建年代は不明であるが、首里城の原形は少なくとも14世紀後半には存在したと、発掘調査によって明らかにされています。13世紀~14世紀といえば、各地に按司(アジ)と呼ばれる政治的支配者がいて、対立と興亡を繰り返していた時代。北山王、中山王、山南王などと称する小規模な王権を形成するまでに成長した有力な按司(アジ)たちは、互いに抗争過程を繰り返しながら、やがて権力統合への道を歩みはじめた。その先頭にたった中山王尚巴志は浦添城から首里城へ政治拠点を移し、1420年代には三山勢力の統一に成功した。1427年、尚巴志は首里城の外苑に池を掘り、安国山に珍しい花樹を植えるなど、王都としての環境整備に努めた(「安国山樹華木之記碑」)。 琉球処分後の首里城は、沖縄県駐屯の「熊本鎮台沖縄分遣隊」の兵舎として、1879(明治12)年から1896(明治29)年まで使用され、その後1945年までの間、首里市立女子工芸学校、沖縄県立工業徒弟学校、首里第一尋常小学校などの校舎として利用された。この間老朽化が進み、1923(大正12)年には、当時の首里市が財政難から正殿の維持管理を断念、取り壊しを決定するが、鎌倉芳太郎氏や伊藤忠太氏らの尽力によって解体をまぬがれ、1925年には特別保護建造物、昭和4年には国宝に指定された。 首里城は沖縄戦も含めて過去四度全焼しており、そのたびごとに再建されている。一度目は1453年におこった王位継承を争う志魯・布里の乱による。二度目は1660年、失火が原因とされている。当時は王府の財政が逼迫しており、再建は困難をきわめたが、国政を担当していた尚象賢の手腕によって10年後に再建される。三度目は1709年、これも失火が原因とされ、再建には時間を要し、1715年に完成をみている。四度目は沖縄戦(1945年)である。このことから、首里城はその焼失・再建を基準にして、創建から1945年の焼失までを四期に区分される。
首里城のあらまし
城の中央には御庭(ウナー)と呼ばれる広場があり、この広場を囲む形で正殿、北殿、南殿などの主要施設が配置されている。特に正殿は首里城を代表する建物で、重要な儀式、式典はこの施設を中心に行われた。 城内の殿舎は、その形体から推察されるように、中国の紫禁城を模したとされている。紫禁城は太和殿を中心に主要殿舎を一直線に配置し、その左右にその他の殿舎を配している。 首里城を囲む城郭は、丘陵とこれに続く平地を幾重もの城壁で取り囲んだ構造であることから平山城の連郭式といわれている。城郭は城の変遷とともに拡大され、内郭と外郭に分けられる。内郭には、瑞泉門、漏刻門ほか、多くの門がある。外郭には、首里城の正門にあたる歓会門、通用門にあたる久慶門、裏門にあたる継世門、城内へ木材や石を運び込む時だけに使用される木曵門などがある。また、外郭内に、大台所、料理座、銭蔵、厩などの施設がある。 首里城の正殿に辿りつくにはたくさんの門をくぐらなければならない。城の第一門は歓会門、第二門が瑞泉門、第三門が漏刻門、第四門が広福門で広福門を経て下之御庭に入り、最後に奉神門を通って御庭へ辿り着く。
参考
http://www.wonder-okinawa.jp/001/001/index.html 『沖縄入門』 比嘉康文 岩垂弘 同時代社 『琉球の王権とグスク』(日本史リブレット) 安里進 山川出版社