馬場信治

出典: Jinkawiki

馬場信春(信房・信勝ほか異名がある)は、甲斐国の武田信虎・信玄・勝頼の三代に近侍して同家を繁栄させた名将であり、武田四名臣の一人に数えられている。合戦で何度も武功をあげたが、単なる猪突猛進型ではなく、知謀を兼ね備えた将であった。
その知謀ぶりがわかるのが、『名将言行録』に記されていた。
信春は臆病で戦を嫌う甲斐の足軽に変装して、天文9年に信濃の諏訪へ潜入、諏訪明神の祝(はふり・神官)と誼みを通じて当地への居住を許されたという。以後、信春は三年間にわたり、諏訪郡の地形や内情を精査し、攻めるべき数々の要所を信玄へ伝えた。信玄はこの情報をもとに同11年、諏訪へ進軍し、諏訪惣領家を滅ぼして諏訪郡を支配下に置いた。

また、天文23年、越後の上杉謙信が、清野宿を焼き払おうとしているとの情報を得た武田信玄は、信春を先発させ、宿場の防衛を命じた。 宿場についた信春は、手勢を残し、自ら斥候となって上杉軍を視察し、引き返すや、宿場住民を集めて迎撃作戦に協力させた。住民の大半を宿場外に潜ませ、宿の屋根上に鉄砲隊と弓隊を隠れさせ、家々に数人の住民を入れた。また、宿路に50騎を配置し、宿場入口の右手山側に、敵の襲来を知らせる旗手を置いたのだ。 やがて、上杉軍5千が、三隊に分かれて宿場に乱入してきた。二陣まで入り込んだところで、旗手が合図を出した。すると鉄砲隊が二陣に向け、一斉に射撃を加えた。驚いて先陣が歩を止めたところを、今度は弓隊が先陣にむけて矢を雨のように射かけた。これを機に、屋内にいた住人が壁や戸を叩き、中で大音声をあげた。
やがて、上杉軍の背後からも大勢の鬨の声が聞こえはじめた。事前に潜ませてあった住民らが声を張り上げているのだが、敵の伏兵だと勘違いした上杉軍は、大いに同様を来した。そこに信春が小数で果敢に攻め込んでいったものだから、上杉軍はパニックにおちいり、狭い路を右往左往しながら宿場外へ逃げ出した。 まもなく、信玄が一万を連れて来臨したので、謙信は焼き打ちを諦めて退却したのだった。信春の勝因は、宿の構造や大軍である上杉兵の慢心をたくみに利用したところにあったといえる。

また信治のエピソードといえば、こんなものもある。
永禄11年12月、駿河攻めに参陣した信治は、武田軍の先鋒として今川方の江尻城(静岡市清水区)を落とし、今川氏真が逃走した後の駿府今川館へ陣を進めた。 そのおり、信玄は京文化の愛好者だった先代当主今川義元の財宝を惜しみ、残らず持ち出すよう命じていた。だが、信治は合戦の最中に敵の宝物を奪うことにより、信玄が貪欲な武将として世人に嘲笑されることを憂い、迷わず今川館に放火して書画骨董を焼き尽くした。信治はあえて主君の命令に逆らい、恥知らずな略奪行為を拒絶したのだ。のちに信玄は、武門の名誉を尊ぶ信治の心情に打たれ、いっそう彼を信頼するのである。 卓越した知謀により信玄に重用された信治は、戦場で力闘を続けた猛将でもあり、約40年にわたる戦歴の中で一度も負傷したことがなかった。その秘訣を僚友の小山田信茂が尋ねると、信治は「素早く状況を判断することが必要」と説き、「よく陣する者は戦わず、よく戦うものは死なず」という古人の言葉を引用して、さらに「敵よりも、まず味方の状況を把握するべきだ」と語っている。知略と武勇を兼備した信治は、常に「戦場常在」の四字を壁にかけ、自戒していたという。


参考文献
・「謀将山本勘助と武田軍団」新人物往来社
・「ふるさとの戦国武将」学研


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