黒人教育
出典: Jinkawiki
目次 |
初等教育
アフリカ系アメリカ人が学ぶことができなかった理由のひとつは、初等教育のレベルで十分な準備を積んでこなかったことだ。地元の黒人たちによる主導、州の補助、特にローゼンウォード基金をはじめとする博愛団体の貢献、これらが組み合わさって初等教育が拡充された。
施設の状況
黒人の子ども向けの学校施設が標準に達していないという問題は何年もの間言われてきたが、1946年にノースカロライナ州ランバートにおいて、劇的な形で変化した。黒人の子どもと親たちが、レッドストーン・アカデミーの名で公に知られ、地元の学校の老朽化がとても危険な状態にあることを訴えボイコット運動をした。このことが大きな新聞社の耳に入り、調査のための記者とカメラマンが送り込まれた。老朽化や非衛生的な状態が記事の中で大きく紹介されると州の保健委員長がこの学校を調査することを決め実行した。
都市の学校
南部の都市の黒人学校の環境は、いくつもの問題があったが、ほかに比べて恵まれた環境だった。黒人中等教育機関は、主要な中心都市域に位置していた。1920年代までに、多くの南部の大都市が、アフリカ系アメリカ人向けの規模のハイスクールを、最低1つは持つようになり、白人学校と比べて多くの点で引け目のない教育経験を提供していた。1930年代までに、南部にアフリカ系アメリカ人に対する中等教育の大部分は、こうした学校によって提供されていた。1940年代までに2000人以上の生徒数を達した。それらの学校が提供するカリキュラムの幅も対応した。また学校には多くの教師、学校管理者、司書、カウンセラー、およびその他の専門職が雇われた。これは、大都市黒人の中産階級の主要な構成要素を代表するものとなった。
参考文献
ジョン・L・ルーリー/シェリー・A・ヒル著 倉石一郎/久原みな子/末木淳子訳「黒人ハイスクールの歴史社会学-アフリカ系アメリカ人の闘い-」(2016)株式会社昭和堂