黒田官兵衛

出典: Jinkawiki

黒田官兵衛は、播磨国の大名・小寺政職(まさとも)の家臣だったが、いち早く羽柴(豊臣)秀吉に臣従、播磨周辺の諸将に対し、織田氏につくよう説き伏せた。 備前・美作国の大大名・宇喜多直家を味方につけたときには、秀吉も狂喜して「あなたを本当の弟のように思う」と感状をしたためたほどだ。
けれども官兵衛は、そんな己の知略に慢心しすぎた。 信長の重臣・荒木村重が謀反を起こした時、単身、村重の居城・有岡城へ乗り込んで説得にあたるが失敗し、背の立たない真っ暗な土牢に一年間も放置された。地面には毒虫が這い、地中から蒸れた臭気が立ちのぼる。普通の人間なら自ら命を絶つだろう。しかし、官兵衛は、その環境に耐えつづけた。すさまじい精神力だったと言えるだろう。ただ、城から救出されたとき、毒虫のために官兵衛の全身は赤黒くただれ、頭髪は抜け落ちて痘瘡が広がり、幽鬼のようだったという。それからの官兵衛は、ますます秀吉の信頼を得て軍師・参謀として重用された。
天正10年6月本能寺で明智光秀によって信長が殺害された。このおり、備中高松城を水攻めしていた秀吉は、その一報が入るや、人目をはばからず泣いた。そのとき、ポンポンと膝をたたいて「殿、天下人へのチャンスではござらぬか」そういったのである。 その状況判断は的確だと言えた。事実、秀吉はこの案を採用して毛利氏と講和を結び、京都へとって返して光秀を討ち、天下人への第一歩を踏みだした。 けれど、人間、思っても言ってはならないことがある。ともあれ、この失言により官兵衛は、一瞬にして秀吉の信頼を失い、生涯警戒し続けられることになった。

四国平定、九州平定、小田原征伐と、官兵衛は参謀として多大な功績を残したが、賜った禄高はたったの16万石。しかも秀吉は、「俺の次に天下を取るのは官兵衛だ」と諸将にいいふらし、露骨に彼を牽制した。なおかつ、謀反を恐れて官兵衛の帰国を許さず、手許で飼い殺そうとしたのである。 このような仕打ちにも官兵衛は黙っていた。このため、周囲の者は彼の天下への野望は潰えたものと思っていた。が、それは誤りだった。
秀吉没後、関ヶ原合戦が起こる。すでに官兵衛は55歳、家督は息子の長政に譲り、九州豊前国(福岡県)で隠居生活を送っており、長政は家康に従って関ヶ原にいた。ところが、このとき官兵衛は、にわかに動いたのである。
大金をはたいて牢人をかり集めるや、周辺大名を次々と襲い、知略の限りを尽くした戦術によって、たちまち九州全土を平定する勢いを見せたのだ。官兵衛は、関ヶ原合戦は100日続くとみていた。その間に九州から中国地方までを席巻し、関ヶ原での勝者と対決しようとたくらんでいたという。 しかしながら、戦いは西軍が大敗して1日で決着がついてしまった。しかも、西軍大名を寝返らせた功労者は、あろうことか、我が子、長政だったのである。官兵衛もまさか実の子に長年の野望を打ち砕かれようとは思ってもみなかっただろう。


参考文献
・「ふるさとの戦国武将」学研


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成