GHQ4
出典: Jinkawiki
GHQの歴史
1942年に連合国軍総司令部がメルボルンに設置され、マッカーサーが総司令官に任命された。1945年に米軍が沖縄本島に上陸した直後、米太平洋陸軍総司令部GHQが設置された。ブリスベーンに移転し、対日反抗作戦が練られた。マニラの米太平洋陸軍総司令部内に民政を担当する軍政局が設置され、本格的な日本占領のためのGHQが設置された。ここに米太平洋陸軍総司令部と連合国最高司令官総司令部の二重構造が成立したのだ。
GHQの組織
GHQは1945年の占領開始から1952年の講和条約発効まで日本を支配した。第二次大戦に敗北した日本は連合国の占領下に置かれたが、その機構はトップに極東委員会があり、そこで政策を決定し、その政策は米国政府を通じて連合国最高司令官に伝達され、GHQの手足である地方軍政機構が日本政府を通じて日本国民を支配したのである。しかし米国政府が拒否権と緊急中間指令権を持っていたため、極東委員会はごくわずかな例外を除けば何ら重要な政策決定を成しえなかった。極東委員会の最高司令官に対する目付役的出先機関として連合国対日理事会が東京に設置されたが、これも農地改革、ソ連からの引揚げなどを除けばほとんど機能麻痺に陥っていた。したがって、連合国の占領といっても実質的には米国政府の政策が日本を支配していたといってもよい。 政策実施を担当したのは連合国最高司令官であったが、ワシントンからの命令(統合参謀本部指令)を実施するにあたってGHQはかなり裁量権をもっており、憲法制定、内務省解体、天皇戦犯除外、農地改革、医療福祉改革などにみられるように、GHQ色の強い政策決定となった。
GHQの戦後改革
占領改革の基本目的は「日本が再び世界及び米国の脅威とならないこと」であり、そのための非軍事化・民主化であった。この非軍事政策は、反戦思想にようやく目覚めた日本国民の意思と一致しており、これが平和憲法、平和産業、平和教育を通じて戦後体制の基本的性格を決定し、戦後日本経済の高度成長をもたらす背景となった。具体的には武装解除、軍需産業の民需産業への転換、公職追放、戦力不保持に始まり、その後自衛隊が創立されても専守防衛的性格にとどめ、PKOなどの国際貢献も「非軍事」に限定するちからとなっている。 民主化政策は非軍事化政策と相互補完的で、弾圧立法撤廃・政治犯釈放・特別高等警察廃止・内務大臣罷免などを含む「人権指令」に始まり、憲法改正、警察改革、選挙制度改革、地方自治改革、官僚改革などの一連の政治改革、財閥解体、農地改革、労働改革などの経済改革、教育改革、宗教改革、マスコミ改革、婦人解放などの社会改革がなされた。しかし、27年間にわたるアメリカ軍による単独軍事占領をうけた沖縄島民は、本土のような非軍事化・民主化に値するいわゆる「戦後改革」を享受することなく、極東における軍事的・戦略的要石として機能させられ、「本土の平和の代償」的役割を演じさせられた。
参考文献
竹前栄治(2002)「GHQの人々~経歴と政策~」明石書店
佐々木毅・鶴見俊輔・富永健一・中村政則・正村公宏・村山陽一郎(2005)「戦後史大事典」三省堂