大政奉還2
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- | 江戸時代、徳川家は江戸幕府のトップに立ち将軍家として君臨していた。天皇から大きな政治などを幕府に委任しているという現像であった。ペリー来航によって迎えた幕末、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における幕府との不一致により幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し大政委任の再確認を求めるようになった。文久3(1863年)3月・翌元治元年4月にそれぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現した。 | + | 江戸時代、徳川家は江戸幕府のトップに立ち将軍家として君臨していた。慶応3年10月の徳川慶喜による大政奉還は、それまでの朝幕の交渉によって再確認された「大政」を朝廷に返上するものであり、江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件であった。しかし、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していた。慶喜は10月24日に将軍職辞職も朝廷に申し出るが辞職が勅許され、王政復古の大号令によって正式に幕府の廃止が宣言されたのであった。 |
- | + | ==経過== | |
- | 慶応3年10月の徳川慶喜による大政奉還は、それまでの朝幕の交渉によって再確認された「大政」を朝廷に返上するものであり、江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件であった。しかし、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していた。慶喜は10月24日に将軍職辞職も朝廷に申し出るが辞職が勅許され、幕府の廃止が公式に宣言されるのは12月9日の王政復古の大号令においてである。 | + | このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張した。これに薩摩藩の小松清廉らも同意し、6月22日薩土盟約が締結された。後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、山内容堂(前土佐藩主)は大政奉還を藩論とすることには同意したものの、上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。10月3日、土佐藩は単独で大政奉還の建白書を藩主・山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。 |
2015年7月22日 (水) 18:39の版
概要
江戸時代、徳川家は江戸幕府のトップに立ち将軍家として君臨していた。慶応3年10月の徳川慶喜による大政奉還は、それまでの朝幕の交渉によって再確認された「大政」を朝廷に返上するものであり、江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件であった。しかし、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していた。慶喜は10月24日に将軍職辞職も朝廷に申し出るが辞職が勅許され、王政復古の大号令によって正式に幕府の廃止が宣言されたのであった。
経過
このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張した。これに薩摩藩の小松清廉らも同意し、6月22日薩土盟約が締結された。後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、山内容堂(前土佐藩主)は大政奉還を藩論とすることには同意したものの、上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。10月3日、土佐藩は単独で大政奉還の建白書を藩主・山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。