赤狩り
出典: Jinkawiki
2015年7月30日 (木) 21:43の版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) |
||
33 行 | 33 行 | ||
==参考文献== | ==参考文献== | ||
- | ・世界史の窓 マッカーシズム/赤狩り http://www.y-history.net/appendix/wh1602-060.html | + | *世界史の窓 マッカーシズム/赤狩り http://www.y-history.net/appendix/wh1602-060.html |
- | ・ハリウッド・テン - OCN ハリウッドを追われた人々の物語 http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/1947.htm | + | *ハリウッド・テン - OCN ハリウッドを追われた人々の物語 http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/1947.htm |
- | ・赤狩り - OCN マッカーシズムと赤狩り http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/red-purge.htm | + | *赤狩り - OCN マッカーシズムと赤狩り http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/red-purge.htm |
Goraiasu | Goraiasu |
最新版
「赤狩り」とは、1950年代のアメリカの共産主義、あるいはその同調者に対する取り締まり運動のことである。当時のアメリカの共和党上院議員マッカーシーを中心に行われたため、「マッカーシズム」とも呼ばれる。
目次 |
概要
1950年代初め、朝鮮戦争の時期のアメリカで、反共産主義に基づく政治活動が行われた。共和党上院議員マッカーシーを中心として、役人、学者、言論人、芸術家、などが親共産主義者として告発された。マッカーシーの執拗な共産主義者の摘発は「赤狩り」と呼ばれるようになり、国民の不安を駆り立てた。1954年にマッカーシーが解任されたことで、沈静化した。
原因
「赤狩り」の根本的な原因として、第二次世界大戦後にソ連が世界を二分するアメリカのライバル国へと成長したこと、中国が毛沢東によって共産化し、第二の共産主義大国へと成長したことが上げられる。さらに、アメリカ国内での共産主義の浸透も原因となった。共産主義の考えは、アメリカ国内の労働者階級だけでなくインテリ層にも拡がりを見せていた。アメリカ政府はFBIなどによる調査を行わせるが、共産主義であるかということを見極めることは難しく、本質的に人間の心の中を見通すことは不可能であったため、その対処は難航していた。そのような状況を打開するために、共産主義だと疑わしい人物は摘発し除外する、という方法で「赤狩り」は始まった。
マッカーシー
G.R.McCarthy アメリカの50年代の共和党上院議員。ウィスコンシン州選出の上院議員であり、冷戦下のアメリカでの共産主義思想浸透を恐れ、共産主義の摘発と称して政府活動特別調査委員会を組織して、告発を行った。しかし、その強硬な手段は次第に不信感を増殖させ、1954年にその告発の根拠は無かったとして、調査委員会委員長の地位を解任される。その数年後にアルコール中毒によって死亡。
ハリウッド・テン
ハリウッドは元々進歩的な考え方を持っていた人間が多かったため、いち早く「赤狩り」の攻撃目標となった。チャップリンがハリウッドから去るなど、多くの映画人がそれに抵抗したが、映画界から追放され職を失う人が多かった。こうした状況が映画界の人間関係に疑心暗鬼を生み出し、一部の映画人がお互いを密告しあうということが起こり、マッカーシズムに協力したと後に指弾された人もいる。メキシコ革命の農民指導者サパタを描いた「革命児サパタ」や、ジェームス=ディーンのデビュー作である「エデンの東」などで知られるエリア=カザンもその一人であった。
非米活動調査委員会の聴聞会には、共産党に入党している映画人だけでなく、共産党員を友人に持つ者、かつて共産党員とかかわりを持った者、共産党員のシンパであると名指しされた者など、疑わしいと思われた人物が呼び出された。その中で共産主義だとされた者、もしくは証言を拒否した者は、ブラックリストに載せられて映画界から追放されることになった。「赤狩り」の犠牲となった代表的な映画人のことを「ハリウッド・テン」と呼ぶようになった。
- ハーバート・ビーバーマン:映画監督。代表作「地の塩」(1953年)。
- アルバート・マルツ:脚本家。「裸の街」(1948年)の脚本を担当。
- リング・ラードナーJr:脚本家・作家。後にロバート・アルトマンと組み「マッシュ」(1970年)に参加し、ハリウッド・テンの中ではいち早く復活を遂げた。
- エドワード・ドミトリク:映画監督。反戦映画「若き獅子たち」(1958年)、娯楽西部劇「ワーロック」などを撮影し、映画界に復帰することができた。
- ジョン・ハワード・ローソン:映画監督。代表作「サハラ戦車隊」(1943年)。
- サミュエル・オーニッツ:脚本家。「医者の日記」(1937年)の脚本を担当。
- レスター・コール:脚本家。「闘牛の女」(1947年)の脚本を担当。
- アルヴァ・ベッシー:脚本家。「戦慄のベルリン地下組織」(1945年)の脚本を担当。
- エイドリアン・スコット:脚本家・プロデューサー。「十字砲火」の製作者。
- 1ダルトン・トランボ:脚本家。
元々優秀な脚本家であったダルトン・トランボは、映画界を追われた後も偽名を使い、彼に協力してくれた人物のおかげで脚本を書き続けることができた。そして、ロバート・リッチという名前で脚本を書いた「黒い牡牛」という作品がアカデミー賞を受賞したが、そのアカデミー賞の授賞式には参加せず、彼の名前が公開されることもなかった。
参考文献
- 世界史の窓 マッカーシズム/赤狩り http://www.y-history.net/appendix/wh1602-060.html
- ハリウッド・テン - OCN ハリウッドを追われた人々の物語 http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/1947.htm
- 赤狩り - OCN マッカーシズムと赤狩り http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/red-purge.htm
Goraiasu