ハンセン病
出典: Jinkawiki
2015年7月30日 (木) 22:19の版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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昔の療養所では子どもを産めなかったせいで、子どもや孫のいない人が多く介護のため引き取るという事が出来ない事が課題としてある。旧患者は「療養所から外に出たら、今でも自分や家族が、まわりの人たちからいやなことをされてつらくかなしい思いをするかもしれない」と心配して、入所者の人たちは、いられる場所が療養所など限られている。今では療養所は入所者の人たちの大切な場所になっており、入所者の人たちの家があり、体のぐあいが悪くなった時に治療をする病院があり、亡くなった後に入るお墓(納骨堂)がある。 | 昔の療養所では子どもを産めなかったせいで、子どもや孫のいない人が多く介護のため引き取るという事が出来ない事が課題としてある。旧患者は「療養所から外に出たら、今でも自分や家族が、まわりの人たちからいやなことをされてつらくかなしい思いをするかもしれない」と心配して、入所者の人たちは、いられる場所が療養所など限られている。今では療養所は入所者の人たちの大切な場所になっており、入所者の人たちの家があり、体のぐあいが悪くなった時に治療をする病院があり、亡くなった後に入るお墓(納骨堂)がある。 | ||
入所者の人たちはそれぞれの部屋で、自分で生活している。また、体の不自由な人は介護員に手伝ってもらっている。 | 入所者の人たちはそれぞれの部屋で、自分で生活している。また、体の不自由な人は介護員に手伝ってもらっている。 | ||
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国立ハンセン病資料館 | 国立ハンセン病資料館 | ||
http://www.hansen-dis.jp/index.html | http://www.hansen-dis.jp/index.html | ||
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国立ハンセン病資料館・資料 | 国立ハンセン病資料館・資料 |
最新版
ハンセン病とは
らい菌による慢性の感染症のこと。初期症状は皮疹と知覚麻痺である。治療薬がない時代には変形を起こしたり、治っても重い後遺症を残すことがあった。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から差別を受けてきた。現在では有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療により後遺症を残さずに治るようになった。 ハンセン病は、およそ1400年も前から日本にあった病気。ハンセン病になる原因は神様を信じなかった、元々人の不幸を引き受ける役目だから、親から子へと受け継がれる病気などと考えていた。現在はそのようなことはないということがわかっているが、昔の人たちはこの事を信じていたので、患者を嫌って近寄らないようにしていた。よって患者だけを集める療養所を作って強制隔離をしても、「それが当たり前」と思い込んでいた。
療養の歴史
初期(15世紀)〜現代
⑴初期
日本では、最初にキリスト教や仏教を広める人たちが療養所を造った。その後、国と県がつくった療養所ができた。120年前に外国から日本にキリスト教を広めようとして来た人たちや、日本の僧などは、自分でお金を出してハンセン病の療養所をつくった。そこでは、差別をされて嫌われて、家もなく、食事も十分にできない患者を看病し住むところや食べ物をあたえた。
よって日本で最初にできたキリスト教や仏教の療養所は、患者を無理やり集めて閉じ込めてしまうための場所では無かった。
⑵初期〜中期 1907年国と県が療養所を設計し、ハンセン病の患者をそこに閉じ込める政策(政府のやり方)を始めた。はじめは住むところがなく、道ばたなどで暮らしていた患者だけを療養所に集めようとしたが、ハンセン病が人から人へうつる病気だとわかったため、他の人にうつさないようにすることが目的だった。しかし、実際はうつりやすい病気では無かった。 また同時に日本の政府は、外国人に患者がいることを見られる事を恥ずかしく思い、療養所に患者を閉じ込めたのは、患者を隠すという目的があった。国と県の療養所では、少ないお金でより多くの患者を入れられるようにするしくみがつくられた。例えば逃げようとしたり、職員の言うことをきかなかったりした患者は牢屋(監禁室)に入れるための懲戒検束規定を作ったり、患者同士が結婚して子どもが産まれれば、その子どもを育てるためにお金がかかるという理由で、患者に子どもを産めないようにする断種手術や中絶手術を受けさせた。 療養所では料理や洗濯、大工や道路工事、畑仕事など、療養所での仕事も、患者たちにさせた。給与はひどく安く、患者さは仕事のせいでけがをしたり、病気をもっと悪くしたりした。
⑶中期 1930年ころ、日本はすべての患者を療養所へ閉じ込めてしまうことにした(絶対隔離という)。いったん療養所に入れられた患者は、死ぬまで外に出られず、家にも帰れないようにした(終生隔離という)。よってそれまでよりもたくさんの患者を閉じ込めるために、療養所を広げたり、新しくつくったりした。当時、国や県は、「ハンセン病は治らないし、恐い病気だ」「療養所はとても良い場所だ」と宣伝し、人びとに、近くでハンセン病の患者や患者の家を見つけたら、警察や役所の人に知らせていた。 また、それぞれの県で、どこが早く全部の患者さんを療養所に入れるか「無癩県運動」という競争までしていた。
⑷中期〜後期 太平洋戦争が起きると、患者は病気で役に立たない人間だと見られて冷たい扱いをされたが、太平洋戦争終戦時の翌年日本国憲法ができ、基本的人権を誰もが持っていると述べられている。 1947年に、ハンセン病を治すことのできる初めてのプロミンという薬が登場した。それまで療養所の中で起こっていたことが周知に知れ渡り始めた。患者は、意見をまとめる団体(自治会)や、その全国組織をつくり、療養所をよくすることをめざして活動した。病気が治った人は、療養所を出たり、外に働きに行ったりするようになりました。でも、そういう時にはハンセン病だったことを隠す必要があった 1953年から1996年までの43年間も、患者や、ハンセン病が治った人たち(回復者)は、療養所を暮らしやすくしようと努力し、また病気になった時にも治してもらえるように、病院としても良い場所にしてほしいとうったえ始めた。療養所に住んでいても、病気は治っている人がほとんどだった。しかし患者さんを療養所に入れ続けるらい予防法は残っていた。
⑸後期
1996年にらい病予防法が廃止された。患者達は自分たちを家族から無理やり引き離して療養所に入れてしまったことや、療養所の中で劣悪な生活をさせたこと政府や療養所に謝辞させるため裁判を起こした。裁判は患者が勝ち、政府はハンセン病への偏見や差別をなくすために努力することを約束した。
しかし長期間療養所に入れたままにされたため、入所者の人たちはふるさとの家族や親戚と離ればなれになり、仲のいい人もいなくなり、帰る場所がなくなってしまった課題がある。
⑹現在〜 昔の療養所では子どもを産めなかったせいで、子どもや孫のいない人が多く介護のため引き取るという事が出来ない事が課題としてある。旧患者は「療養所から外に出たら、今でも自分や家族が、まわりの人たちからいやなことをされてつらくかなしい思いをするかもしれない」と心配して、入所者の人たちは、いられる場所が療養所など限られている。今では療養所は入所者の人たちの大切な場所になっており、入所者の人たちの家があり、体のぐあいが悪くなった時に治療をする病院があり、亡くなった後に入るお墓(納骨堂)がある。 入所者の人たちはそれぞれの部屋で、自分で生活している。また、体の不自由な人は介護員に手伝ってもらっている。
参考
国立ハンセン病資料館
http://www.hansen-dis.jp/index.html
国立ハンセン病資料館・資料