フルシチョフ

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== 共産国の分裂 == == 共産国の分裂 ==
-スターリン批判を機にフルシチョフの下で非スターリン化が進み、ソ連国内の「雪どけ」と東欧に自由化を求める運動が起こったが、国内の自由化に対しては行き過ぎを厳しく対処し、+ スターリン批判を機にフルシチョフの下で非スターリン化が進み、ソ連国内の「雪どけ」と東欧に自由化を求める運動が起こったが、国内の自由化に対しては行き過ぎを厳しく対処し、また東欧諸国の動きに対してはポーランド反ソ暴動とハンガリー反ソ暴動のいずれも力ずくで抑えつけた。一方でフルシチョフを批判してソ連と袂を分かつ形となった中国共産用の毛沢東との論争「中ソ論争」を展開し、中ソ対立を招いた。

2015年7月31日 (金) 01:05の版

目次

フルシチョフについて

 スターリンの死去後にソ連を指導した共産党の政治家。彼は古くからの党活動歴を持つ党人派で、スターリン晩年の取り巻きの一人であったが、1953年から共産党第一党書記として集団指導体制に加わった。


スターリン批判

 1956年のソ連共産党第20回大会で、平和共存への転換を表明、スターリン批判を行った。それを機に起こったハンガリー事件などの東欧の反ソ運動に対してはソ連軍を派遣して抑えつけた。戦後のソ連をスターリン時代から転換させた重要な指導者の一人である。


政権獲得と平和共存

 1957年にはモロトフやマレンコフを排除し、さらに人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するなどを背景に力をつけ、58年にはブルガーニン首相を解任して自ら兼任した。核開発や宇宙開発でアメリカと対等な力を付けたという自信を背景に、フルシチョフはソ連内部の対米強硬派を抑え、アメリカとの平和共存路線を模索し、1959年にはソ連首相として始めて渡米し、アイゼンハウアーと会談した。


フルシチョフのアメリカ訪問

1959年、当時権力の絶頂にあったフルシチョフは、ニーナ夫人を伴い、ソ連首相として初めて訪米した。その平和共存路線に沿って国際連合総会で演説し、全面完全軍縮を提案した。また、アメリカのアイゼンハウアー大統領はワシントン郊外のキャンプデーヴィッドにフルシチョフを招き、米ソ首脳の会談が行われた。両社は国際紛争の平和解決では合意し、アイゼンハウアーの訪ソが約束された。これによって冷戦の緩和が進むかと思われたが、翌60年5月にU2型機事件が起きて再び緊張状態に戻った。


キューバ危機

アメリカでは大統領が1961年からケネディに交代。当時深刻さを増していたベルリン問題の解決に向けて、ウィーンで米ソ首脳会談が行われた。ソ連はドイツからのアメリカ軍の撤退を要求、アメリカが拒否したため話し合いは決裂し、それを受けて東ドイツ政府はベルリンの壁の構築に踏み切った。さらにキューバ革命(1959)を成功させたカストロが反米姿勢を強めると、キューバにミサイル基地を設置し、軍事的優位に立とうとした。1962年、アメリカがキューバへのソ連のミサイル配備を非難、キューバを封鎖したためのキューバ危機となり、核戦争の勃発の危機が高まった。フルシチョフは妥協してキューバからミサイル基地を撤去し、翌63年には部分的核実験停止条約締結に合意し、アメリカとは「敵対的平和」の状態に入った。


共産国の分裂

 スターリン批判を機にフルシチョフの下で非スターリン化が進み、ソ連国内の「雪どけ」と東欧に自由化を求める運動が起こったが、国内の自由化に対しては行き過ぎを厳しく対処し、また東欧諸国の動きに対してはポーランド反ソ暴動とハンガリー反ソ暴動のいずれも力ずくで抑えつけた。一方でフルシチョフを批判してソ連と袂を分かつ形となった中国共産用の毛沢東との論争「中ソ論争」を展開し、中ソ対立を招いた。


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