スパルタ
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==スパルタの滅亡== | ==スパルタの滅亡== | ||
- | 紀元前449年(これ以後出てくる年代はすべて紀元前)にペルシア戦争がギリシアの勝利に終わると、ペルシアの再来に備えるためにデロス同盟というものが結成されますしかし、この同盟の盟主になったアテネが段々ギリシアの中で力を増大していくのに恐れを感じたスパルタはペロポネソス同盟というものを組んで、アテネに対抗しようとします431~404年ペロポネソス戦争が起こりますこの戦で勝利を手にしたスパルタでしたが、新興勢力のテーベ(ギリシアの都市国家のひとつ)に負けてしまいますここからギリシアでの混乱(主にアテネ・スパルタ・テーベによる三つ巴状態)が始まり、断続的にこぜりあいが起こっていましたそこに現れたのがマケドニアでしたマケドニア王フィリッポス2世に338年カイロネイアの戦いで大敗を喫したギリシアは、マケドニアが盟主であるコリントス同盟に加盟することになりましたしかし、スパルタは加盟せず、アレクサンドロスに対して起こした反乱が失敗した331年にやっと加盟することになりますその後、アレクサンドロス大王の死をきっかけに帝国は分裂し、アレクサンドロスの部下同士が争うディアドコイ戦争が始まり、同時にヘレニズム時代(グローバルな見方ができるようになった時代)が到来しました当時のスパルタはというと、必死に独立を成し遂げようとはするものの、全くうまくいかずにいましたその後、まもなくローマが台頭してきます領土を着々と広げてきていたローマにとって、ギリシアも例外ではありませんでしたローマとローマの商敵カルタゴとの戦争(ポエニ戦争264~146年)の際、マケドニアがカルタゴと同盟を組んでいた事からギリシアもカルタゴ側についていたと思われますそして戦争に負けたカルタゴが146年に滅亡・征服されると同時に、ギリシア、今回の話題のスパルタも征服されてしまいます | + | 紀元前449年、ギリシアの勝利でペルシア戦争が終わると再来に備えアテネ中心にデロス同盟を結成する。それに危機を感じたスパルタはペロポネソス同盟を結び対抗しようとした。その後おこったペロポネソス戦争によってスパルタは勝利するが、マケドニアのフィリッポス二世がカイロネイアの戦い(338年)によってギリシアを下す。続くポエニ戦争ではカルタゴが支配されると同時に、ギリシア、スパルタも征服荒れていく。 |
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+ | 世界史B用語集 山川出版 | ||
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+ | HN プー |
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ペロポネソス半島の南部のラコニス平原を占めた、ドーリア人のポリス。ドーリア人が先住民を征服して設立した、征服型ポリスのステレオタイプ。ギリシアでは例外的に穀物自給ができ、市民の商工業が禁止されるなど鎖国体制がとられた。また、完全市民である征服者が被征服者の反抗を抑圧するために「リュクルゴスの制」と言われる特異な国政が定められた。また、スパルタの不完全市民を「周辺に住むもの」の意で、ペリオイコイと呼んだとされている。彼らは、農業、商工業に従事した。また、彼らには貢納従軍の義務を負わされたが、参政権はなかった。また、スパルタの完全市民に共有された奴隷農民のことをヘイロータイ(ヘロット)という。ドーリア人がスパルタの地に侵入した際に征服された人々が起源で、農耕労働を強制され、貢納の義務を負った。数は完全市民の倍とされ、しばしば反乱を起こした。
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スパルタの滅亡
紀元前449年、ギリシアの勝利でペルシア戦争が終わると再来に備えアテネ中心にデロス同盟を結成する。それに危機を感じたスパルタはペロポネソス同盟を結び対抗しようとした。その後おこったペロポネソス戦争によってスパルタは勝利するが、マケドニアのフィリッポス二世がカイロネイアの戦い(338年)によってギリシアを下す。続くポエニ戦争ではカルタゴが支配されると同時に、ギリシア、スパルタも征服荒れていく。
参考文献 世界史B用語集 山川出版
HN プー