アパルトヘイト 5

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 +   編集 佐藤次高、木村靖二、岸本美緒 「詳説 世界史」

2015年7月31日 (金) 15:17の版

アパルトヘイトとは、アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する南アフリカ政府が第2次世界大戦後から1990年代初頭まで行っていた人種隔離政策のこと。 南アフリカ国内の、全人口の内15%程度の白人を優遇し、多数派であった黒人を極端に差別していた。


差別の内容

・原住民土地法

1971年に実施された、国土の内の僅か13%である辺境不毛の地に「ホームランド」と呼ばれるものを10地区作り、そこに2500万人もの黒人たちを収容し、最終的にはそこを独立国にしようとしたこと。しかし、これは名目上であって、本来の目的は黒人を他国の国民として扱うことであり、黒人達から南アフリカの市民権を奪い、外国籍の出稼ぎ労働者として扱おうとするものであった。


・隔離施設留保法

ホテル、レストラン、列車、バスなどの公共施設のすべてが白人用と白人以外用に区別されたこと。 白人専用となった場所に、黒人が立ち入った場合は即座に逮捕されてしまう。


・集団地域法

人種ごとに住む場所が決められ、黒人は産業地盤の乏しい地域に押しやられて白人社会での安価な労働力としかみなされなかった。


・雑婚禁止法

人種が違う男女が結婚することは禁止とされた。


・背徳法

異なる人種の異性同士が恋愛関係となるだけで罰せられる法。


アパルトヘイトの廃止

1980年代に入り、反アパルトヘイト運動が国内各地で激化していった。また、欧米などから経済的な制裁を受けた。 これらを受けて、1989年に大統領に就任したデクラークはアパルトヘイト撤廃に向けた改革を行った。 1991年には、アパルトヘイトの撤廃を宣言し、6月に人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止となり、アパルトヘイトの体制は崩れていった。その後、1994年に全人種が参加する初の総選挙が行われ、黒人のネルソン・マンデラが大統領に就任した。 デクラークは副大統領となり、デクラークとマンデラは、ノーベル平和賞を受賞した。


参照 http://connaissance.blog54.fc2.com/blog-entry-73.html     編集 佐藤次高、木村靖二、岸本美緒 「詳説 世界史」


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