イギリス東インド会社
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イギリス東インド会社とは
イギリスの東洋貿易を独占的に行なった特権会社。エリザベス1世が1600年に創設させた。マレー諸島の香料をオランダと争い、敗れたのちは茶や綿布取引の一方、戦争と地税徴収などによりインドの植民地化を推進。貿易自由化の要求により1858年インド統治権を本国に移管した。重商主義による国の保護によって隆盛した。
イギリス東インド会社の隆盛
イギリスの東インド会社が、オランダと同じ配当方式になるのはクロムウェル時代の1657年で、それ以後イギリス東インド会社はオランダとの競争力をつけ、その香料貿易独占に食い込んでいき、英蘭戦争での勝利もあって、18世紀にはオランダ東インド会社を追い抜き、巨大な利益を生み出すことになる。 また東インド会社の活動がインド中心になるに伴い、その輸入品はまずインド産綿布(木綿)が中心となった。綿布はキャラコというが、それはカリカットがなまったものと言われている。綿布の輸入は毛織物業に打撃を与えたので、毛織物生産業者は綿布の輸入を制限しようとして、キャラコ論争が起こる。ついで中国産の茶がその流行もあって増大していった。
イギリス会社に与えたインド貿易の成功とは
イギリス東インド会社の活動はインド社会だけではなく、イギリスの社会・経済にも大きな影響を与えた。金融面ではイギリスにおける株式の取引が行われるようになったことであり、経済面では「キャラコ熱」がイギリスにおける産業革命をもたらした。さらに、社会的にはネイボッブと呼ばれる新しい層が台頭したことにあった。
イギリス東インド会社の解散
インド大反乱によるダメージ。 東インド会社支配のあり方を転換させる要因であった。その爆発が1857年の東インド会社の傭兵であるシパーヒーが起こしたインド大反乱(シパーヒーの乱)である。イギリス本国政府は、インド大反乱の勃発は、東インド会社のインド統治の失敗と考え、翌1858年8月に、インド統治法を制定し、ついに東インド会社を解散させ、インドは本国政府が直接支配下におくこととした。これはランカシャーを中心とする綿工業の産業資本家の要求でもあった。これによって1600年に特許状を与えられて始まった東インド会社が終焉した。
参考文献
浅田実『東インド会社』講談社現代新書
岡崎勝世他『明解 新世界史A』帝国書院
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