日清戦争3

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2015年7月28日 (火) 17:45の版
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120年前の7月25日、日清両国の海軍が仁川の沖合で激突した。いわゆる豊島沖海戦である。これによって日清戦争(中国では”甲午戦争”)の火蓋が切られた。両国が正式に宣戦を布告したのは8月1日だが、中国では7月25日が日清戦争が始まった日として認識されている。そのため、25日には中国の主要メディアがこぞって日清戦争敗北の意味を振り返る特集記事や論説を掲げた。 120年前の7月25日、日清両国の海軍が仁川の沖合で激突した。いわゆる豊島沖海戦である。これによって日清戦争(中国では”甲午戦争”)の火蓋が切られた。両国が正式に宣戦を布告したのは8月1日だが、中国では7月25日が日清戦争が始まった日として認識されている。そのため、25日には中国の主要メディアがこぞって日清戦争敗北の意味を振り返る特集記事や論説を掲げた。
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 +== 日清戦争の原因 ==
 +日本の隣国、中国(当時は清)と朝鮮の関係が、日清戦争が起きた最大の原因である。朝鮮政府は、当時日本政府に国を守ってもらうため日本に依存していた。しかし朝鮮で内紛が起きた時にそれを解決してくれたのは清だった。それから朝鮮は清に依存するようになった。さまざまな問題を避けるため日本と清は、朝鮮に行くときお互いに連絡するという条約を結んだ。しかしその後朝鮮で甲午農民戦が起こり、日本と清が朝鮮に進出し、日清戦争が起きてしまった。
== 日清戦争の勝利と得たもの == == 日清戦争の勝利と得たもの ==
-戦闘は日本軍の優勢のうちに進み、9月には平壌会戦と黄海海戦で勝利し、10月には清朝領内の遼東半島、翌年1月には山東半島に侵攻、3月には澎湖島を占領した。1895年3月、清は降伏し、下関条約が結ばれた。全権代表は日本が伊藤博文、清は李鴻章だった。内容は、朝鮮の独立、遼東半島・澎湖島・台湾の日本への割譲、賠償金2億両など。朝鮮の独立とは、清が宗主権を放棄し日本の朝鮮への干渉を容認することを意味した。賠償金2億両は当時の日本政府の歳入4年2ヶ月分にあたる。+戦闘は日本軍の優勢のうちに進み、9月には平壌会戦と黄海海戦で勝利し、10月には清朝領内の遼東半島、翌年1月には山東半島に侵攻、3月には澎湖島を占領した。1895年3月、清は降伏し、下関条約が結ばれた。全権代表は日本が伊藤博文、清は李鴻章だった。内容は、朝鮮の独立、遼東半島・澎湖島・台湾の日本への割譲、賠償金2億両など。朝鮮の独立とは、清が宗主権を放棄し日本の朝鮮への干渉を容認することを意味した。賠償金2億両は当時の日本政府の歳入4年2ヶ月分にあたった。
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== 参考文献 == == 参考文献 ==
  著 佐谷眞木人 「日清戦争 国民の誕生」   著 佐谷眞木人 「日清戦争 国民の誕生」
 +  著 檜山幸夫  「近代日本の形成と日清戦争:戦争の社会史」
 +   
 +H・N KY

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目次

日清戦争の始まり

120年前の7月25日、日清両国の海軍が仁川の沖合で激突した。いわゆる豊島沖海戦である。これによって日清戦争(中国では”甲午戦争”)の火蓋が切られた。両国が正式に宣戦を布告したのは8月1日だが、中国では7月25日が日清戦争が始まった日として認識されている。そのため、25日には中国の主要メディアがこぞって日清戦争敗北の意味を振り返る特集記事や論説を掲げた。


日清戦争の原因

日本の隣国、中国(当時は清)と朝鮮の関係が、日清戦争が起きた最大の原因である。朝鮮政府は、当時日本政府に国を守ってもらうため日本に依存していた。しかし朝鮮で内紛が起きた時にそれを解決してくれたのは清だった。それから朝鮮は清に依存するようになった。さまざまな問題を避けるため日本と清は、朝鮮に行くときお互いに連絡するという条約を結んだ。しかしその後朝鮮で甲午農民戦が起こり、日本と清が朝鮮に進出し、日清戦争が起きてしまった。

日清戦争の勝利と得たもの

戦闘は日本軍の優勢のうちに進み、9月には平壌会戦と黄海海戦で勝利し、10月には清朝領内の遼東半島、翌年1月には山東半島に侵攻、3月には澎湖島を占領した。1895年3月、清は降伏し、下関条約が結ばれた。全権代表は日本が伊藤博文、清は李鴻章だった。内容は、朝鮮の独立、遼東半島・澎湖島・台湾の日本への割譲、賠償金2億両など。朝鮮の独立とは、清が宗主権を放棄し日本の朝鮮への干渉を容認することを意味した。賠償金2億両は当時の日本政府の歳入4年2ヶ月分にあたった。


日清戦争の死者

日清戦争は明治28年(1895)四月十七日に新との間で講和条約が締結した。しかしその後も台湾で戦闘が続いた。それは明治29年三月に台湾総督府条例が交付され迄続いた。日清戦争に行った兵の数は二十四万人余りが動員された。その死者の数は一万三千四百四十八人だった。台湾での死者は、一万八百四十一人、その中で病死したのは、一万二百三十六人であった。


参考文献

  著 佐谷眞木人 「日清戦争 国民の誕生」   著 檜山幸夫  「近代日本の形成と日清戦争:戦争の社会史」     H・N KY


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