現代音楽
出典: Jinkawiki
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この第二次世界大戦の軍事通信技術の発達は、音楽にも電子的なメディアの導入をもたらすことになった。電子的に音を作るのが容易になり、録音技術も進んだ。1952年にパリで公開された「ミュジック・コンクレート」と1950年にケルンで始まった電子音楽は、楽音(弦楽器や管楽器の音などのように音の高さがしっかりしている音)の概念が無視されるようになるきっかけとなった。「ミュジック・コンクレート」は、録音された楽音や、機械的にまたは電子的に変形された音から成り立つ音楽だった。 | この第二次世界大戦の軍事通信技術の発達は、音楽にも電子的なメディアの導入をもたらすことになった。電子的に音を作るのが容易になり、録音技術も進んだ。1952年にパリで公開された「ミュジック・コンクレート」と1950年にケルンで始まった電子音楽は、楽音(弦楽器や管楽器の音などのように音の高さがしっかりしている音)の概念が無視されるようになるきっかけとなった。「ミュジック・コンクレート」は、録音された楽音や、機械的にまたは電子的に変形された音から成り立つ音楽だった。 | ||
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この時期になると、表現主義や印象主義などの芸術至上主義への反発や調性の崩壊への危機感などから、ソナタ形式や交響曲の復活をめざし、バロック時代の組曲やコンチェルト・グロッソなどの形式を意識的に使用して、調性感も感じられるような曲を作ろうとう「新古典主義」の動きがおこった。ストラヴィンスキーやフランスのオネゲル、ミヨー、プーランクらは、「バッハに帰れ」を合言葉に活動した。 | この時期になると、表現主義や印象主義などの芸術至上主義への反発や調性の崩壊への危機感などから、ソナタ形式や交響曲の復活をめざし、バロック時代の組曲やコンチェルト・グロッソなどの形式を意識的に使用して、調性感も感じられるような曲を作ろうとう「新古典主義」の動きがおこった。ストラヴィンスキーやフランスのオネゲル、ミヨー、プーランクらは、「バッハに帰れ」を合言葉に活動した。 |
2015年8月3日 (月) 03:24の版
近・現代(19世紀終わり頃~20世紀)
普仏戦争、第二次世界大戦の頃
個々の作曲家がこれまでの形式や調にとらわれずに、さまざまな作曲法を試みた時代
目次 |
主な作曲家
ドビュッシー(1862~1918)
ラヴェル(1875~1937)
ストラヴィンスキー(1874~1951)
普仏戦争
1870年、(普)プロイセン(仏)フランスで戦争が起こった。この戦争を普仏戦争という。プロイセン側にドイツも関わっていたことから、独仏戦争と呼ばれる場合もある。 プロイセンのビスマルクがフランスのナポレオン三世を挑発して戦争に至ったという側面が強い。結果はプロイセンが勝利し、翌年の1871年、ドイツ帝国が成立した。
この普仏戦争が終わると、フランスでは自国の作曲家の作品を演奏する機会を増やそうとフランス国民音楽協会が設立され、オーケストラ作品、室内楽作品の量、質共に著しい興隆をもたらした。このような活動により、フランスは20世紀前半の西洋の音楽に重要な影響を与えることになった。
第二次世界大戦
1939年、ドイツのポーランド侵入がきっかけで始まり、イギリスとフランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大した世界規模の戦争である。初めは、日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国が優勢であったが、のちにアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の連合国が優位にたつようになり、1943年にイタリア、1945年の5月にドイツが降伏していった。また日本もアメリカによる広島・長崎への原子爆弾の投下によって、1945年の8月に降伏しこの第二次世界大戦が終結した。
この第二次世界大戦の軍事通信技術の発達は、音楽にも電子的なメディアの導入をもたらすことになった。電子的に音を作るのが容易になり、録音技術も進んだ。1952年にパリで公開された「ミュジック・コンクレート」と1950年にケルンで始まった電子音楽は、楽音(弦楽器や管楽器の音などのように音の高さがしっかりしている音)の概念が無視されるようになるきっかけとなった。「ミュジック・コンクレート」は、録音された楽音や、機械的にまたは電子的に変形された音から成り立つ音楽だった。
古典主義と12音技法の確立
この時期になると、表現主義や印象主義などの芸術至上主義への反発や調性の崩壊への危機感などから、ソナタ形式や交響曲の復活をめざし、バロック時代の組曲やコンチェルト・グロッソなどの形式を意識的に使用して、調性感も感じられるような曲を作ろうとう「新古典主義」の動きがおこった。ストラヴィンスキーやフランスのオネゲル、ミヨー、プーランクらは、「バッハに帰れ」を合言葉に活動した。
ドイツのヒンデミットは、公衆と作曲家の距離感が増すのを憂えて不協和音などを少なくした「実用音楽」を作り始めた。プロコヒィエフやショスタコヴィチのソヴィエト連邦の社会主義リアリズムも新古典主義と同じような特徴がみられる。
一方で、1920年代の初めに、シェーンベルクは、相互関係しか持たない12の音で作曲する「12音技法」を創案し、第二次世界大戦後の前衛的な音楽に多大な影響を与えた。シェーンベルクの有名な弟子、ベルクとウェーベルンは、それぞれに12音技法を推し進めた。ベルクのオペラ「ヴォツェック」「ルル」は表現主義の傑作とされる。また、「転写主義」ともよばれたウェーベルンの作風は後の音列技法に大きな影響を与えた。
国民主義の作曲家たち
ロシアの国民主義音楽を最初に創造したのは、歌劇《イヴァン・スサーニン》や《ルスランとリュドミーラ》などで知られるグリンカだ。彼に続いたのがダルゴムイシスキーで、そのあとにロシア五人組の人たちが現れてくる。 国民主義的ないきかたを最も明確に表したのがロシアの五人組による音楽だった。五人組にはバラキレフ(1837~1910)、キュイ(1835~1918)、ボロディン(1833~87)、リムスキー=コルサコフ(1844-1908)、ムソルグスキー (1839-81)がいるが、このうち、正規の音楽教育を受けたのはバラキレフだけだった。ほかの人たちは今ふうにいえば、趣味で音楽に興じるディレッタントに過ぎなかった。それだけに、伝統にあまりとらわれることなく、玄人くさくないフレッシュな音楽を生み出せたのだといえるだろう。
参考文献
大人の音楽史入門 長沼由美 二藤宏美 著 YAMAHA
YAMAHA 音楽史について学ぶ 近代・現代の音楽 http://jp.yamaha.com/services/teachers/music_pal/study/history/modern/p2/
世界史の窓 普仏戦争 http://www.y-history.net/appendix/wh1202-115.html