フルシチョフ
出典: Jinkawiki
2015年7月30日 (木) 19:28の版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) (→政権獲得と平和共存) ← 前の差分へ |
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スターリンの死去後にソ連を指導した共産党の政治家。彼は古くからの党活動歴を持つ党人派で、スターリン晩年の取り巻きの一人であったが、1953年から共産党第一党書記として集団指導体制に加わった。 | スターリンの死去後にソ連を指導した共産党の政治家。彼は古くからの党活動歴を持つ党人派で、スターリン晩年の取り巻きの一人であったが、1953年から共産党第一党書記として集団指導体制に加わった。 | ||
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- | 1957年にはモロトフやマレンコフを排除し、さらに人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するなどを背景に力をつけ、58年にはブルガーニン首相を解任して自ら兼任した。 | + | 1957年にはモロトフやマレンコフを排除し、さらに人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するなどを背景に力をつけ、58年にはブルガーニン首相を解任して自ら兼任した。核開発や宇宙開発でアメリカと対等な力を付けたという自信を背景に、フルシチョフはソ連内部の対米強硬派を抑え、アメリカとの平和共存路線を模索し、1959年にはソ連首相として始めて渡米し、アイゼンハウアーと会談した。 |
- | 核開発や宇宙開発でアメリカと対等な力を付けたという自信を背景に、フルシチョフはソ連内部の対米強硬派を抑え、アメリカとの平和共存路線を模索し、1959年にはソ連首相として始めて渡米し、アイゼンハウアーと会談した。 | + | |
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+ | 1959年、当時権力の絶頂にあったフルシチョフは、ニーナ夫人を伴い、ソ連首相として初めて訪米した。その平和共存路線に沿って国際連合総会で演説し、全面完全軍縮を提案した。また、アメリカのアイゼンハウアー大統領はワシントン郊外のキャンプデーヴィッドにフルシチョフを招き、米ソ首脳の会談が行われた。両社は国際紛争の平和解決では合意し、アイゼンハウアーの訪ソが約束された。これによって冷戦の緩和が進むかと思われたが、翌60年5月にU2型機事件が起きて再び緊張状態に戻った。 | ||
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+ | ・柳沢英二郎『フルシチョフ退陣前後 : ひとつの仮説と覚書 (特集 20世紀の戦争・紛争をめぐる国際政治(2)柳沢英二郎「戦後国際政治史」研究への再評価と挑戦)』 | ||
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+ | ・松戸清裕『スターリン批判とフルシチョフ(<特集>2006年度大会)』 | ||
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+ | H.N KK |
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概要
スターリンの死去後にソ連を指導した共産党の政治家。彼は古くからの党活動歴を持つ党人派で、スターリン晩年の取り巻きの一人であったが、1953年から共産党第一党書記として集団指導体制に加わった。
スターリン批判
1956年のソ連共産党第20回大会で、平和共存への転換を表明、スターリン批判を行った。それを機に起こったハンガリー事件などの東欧の反ソ運動に対してはソ連軍を派遣して抑えつけた。戦後のソ連をスターリン時代から転換させた重要な指導者の一人である。
政権獲得と平和共存
1957年にはモロトフやマレンコフを排除し、さらに人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するなどを背景に力をつけ、58年にはブルガーニン首相を解任して自ら兼任した。核開発や宇宙開発でアメリカと対等な力を付けたという自信を背景に、フルシチョフはソ連内部の対米強硬派を抑え、アメリカとの平和共存路線を模索し、1959年にはソ連首相として始めて渡米し、アイゼンハウアーと会談した。
フルシチョフのアメリカ訪問
1959年、当時権力の絶頂にあったフルシチョフは、ニーナ夫人を伴い、ソ連首相として初めて訪米した。その平和共存路線に沿って国際連合総会で演説し、全面完全軍縮を提案した。また、アメリカのアイゼンハウアー大統領はワシントン郊外のキャンプデーヴィッドにフルシチョフを招き、米ソ首脳の会談が行われた。両社は国際紛争の平和解決では合意し、アイゼンハウアーの訪ソが約束された。これによって冷戦の緩和が進むかと思われたが、翌60年5月にU2型機事件が起きて再び緊張状態に戻った。
キューバ危機
アメリカでは大統領が1961年からケネディに交代。当時深刻さを増していたベルリン問題の解決に向けて、ウィーンで米ソ首脳会談が行われた。ソ連はドイツからのアメリカ軍の撤退を要求、アメリカが拒否したため話し合いは決裂し、それを受けて東ドイツ政府はベルリンの壁の構築に踏み切った。さらにキューバ革命(1959)を成功させたカストロが反米姿勢を強めると、キューバにミサイル基地を設置し、軍事的優位に立とうとした。1962年、アメリカがキューバへのソ連のミサイル配備を非難、キューバを封鎖したためのキューバ危機となり、核戦争の勃発の危機が高まった。フルシチョフは妥協してキューバからミサイル基地を撤去し、翌63年には部分的核実験停止条約締結に合意し、アメリカとは「敵対的平和」の状態に入った。
共産国の分裂
スターリン批判を機にフルシチョフの下で非スターリン化が進み、ソ連国内の「雪どけ」と東欧に自由化を求める運動が起こったが、国内の自由化に対しては行き過ぎを厳しく対処し、また東欧諸国の動きに対してはポーランド反ソ暴動とハンガリー反ソ暴動のいずれも力ずくで抑えつけた。一方でフルシチョフを批判してソ連と袂を分かつ形となった中国共産用の毛沢東との論争「中ソ論争」を展開し、中ソ対立を招いた。フルシチョフは59年に中ソ技術協定破棄を通告、毛沢東は独自の核開発を進めることになり、64年には中国の核実験を強行した。
評価と批判
フルシチョフは地方の労働出身で、長く農民活動に携わり、1930年代にはモスクワ市長として経験を積んだ、現場の政治家であり、その親しみやすい風貌からも民衆に人気があった。しかし、その手法は振幅が大きく、時に独断的でその外交は「瀬戸際外交」と言われて不安定なものであった。フルシチョフの政治では、
・スターリンの世界戦争不可避論に変わって平和共存路線に展開させたこと。
・農業綿などの生産性を高め、経済成長を実現させたこと。
などは評価されている。しかし、キューバ危機での弱腰によって非難が起こり、1964年に反対派によって一方的に解任され、その後は年金生活を送って71年に死去した。
参考文献
・柳沢英二郎『フルシチョフ退陣前後 : ひとつの仮説と覚書 (特集 20世紀の戦争・紛争をめぐる国際政治(2)柳沢英二郎「戦後国際政治史」研究への再評価と挑戦)』
・松戸清裕『スターリン批判とフルシチョフ(<特集>2006年度大会)』
H.N KK