バラ戦争

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2015年7月31日 (金) 01:41の版
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・ランカスター朝からヨーク朝へ ・ランカスター朝からヨーク朝へ
- 百年戦争終結後間もなく、ランカスター朝ヘンリ6世は精神に異常をきたした。子供が生まれたが王子を認識できないような状態だった。狂った夫と幼い王位継承者の我が子を守らなければならなくなった王妃マーガレットが国王支持の貴族たちを束ねた。一方、かねてからランカスター家の王位継承に異議を唱えていたヨーク家のリチャードは事を急がねばならぬと考え、1455年10月、セント=オールバンズで国王を襲撃した。その後、一進一退の内戦を繰り広げ、1460年にはヨーク家リチャードが戦死する。その子エドワードは、有力貴族ウォーリク伯の支援を得て逆襲し、61年にロンドンに入り、貴族たちに推戴されて王位につきヨーク朝が成立、エドワード4世となった。敗れたヘンリ6世とマーガレットはスコットランドに逃れた。+ 百年戦争終結後間もなく、ランカスター朝のヘンリ6世は精神に異常をきたした。子供が生まれたが王子を認識できないような状態だった。狂った夫と幼い王位継承者の我が子を守らなければならなくなった王妃マーガレットが、国王支持の貴族たちを束ねた。一方、かねてからランカスター家の王位継承に異議を唱えていたヨーク家のリチャードは事を急がねばならぬと考え、1455年10月、セント=オールバンズで国王を襲撃した。その後、一進一退の内戦を繰り広げ、1460年にはヨーク家リチャードが戦死する。その子エドワードは、有力貴族ウォーリク伯の支援を得て逆襲し、61年にロンドンに入り、貴族たちに推戴されて王位につきヨーク朝が成立、エドワード4世となった。敗れたヘンリ6世とマーガレットはスコットランドに逃れた。
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-・バラ戦争の終結+ 
 +== 終結 ==
 リチャード3世の王位簒奪と残虐な行いに反発した貴族は、ランカスター家の縁者でブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリが1458年にイングランドに上陸すると、一斉にそれを支持した。ヘンリはウェールズの軍勢などを兵力として、8月にボズワースの戦いでリチャード3世を破り、新たにテューダー朝を開いてヘンリ7世として王位についた。翌年、ヨーク家のエリザベスと正式に結婚し、ここにバラ戦争は終わりを告げた。  リチャード3世の王位簒奪と残虐な行いに反発した貴族は、ランカスター家の縁者でブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリが1458年にイングランドに上陸すると、一斉にそれを支持した。ヘンリはウェールズの軍勢などを兵力として、8月にボズワースの戦いでリチャード3世を破り、新たにテューダー朝を開いてヘンリ7世として王位についた。翌年、ヨーク家のエリザベスと正式に結婚し、ここにバラ戦争は終わりを告げた。
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 +== 与えた影響 ==
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 + バラ戦争の影響で、家系を絶やした貴族は疲弊・没落し、封建社会は完全に衰退した。一方でヘンリ7世の掲げるテューダー朝政権とは、封建貴族を抑えるために家臣団を解散させ、所領を没収して王領を拡大し、政権を国王に集中させることであった。貨幣統一、度量衡統一、課税強化などによって財政を安定させ、司法面では国王大権を全面的に押し出した裁判所・星室庁(せいしつちょう。ウェストミンスター宮殿の星の間と呼ばれる所。天井に星印がある)を設置して、政敵をねじ伏せていった。このようにしてヘンリ7世は、国王中心のイギリス絶対主義王政の基盤を築いていき、"中世英国"に有終の美を飾り、子ヘンリ8世(位1509-47)の治世によって、絶対主義国家イギリスの王政を完成するのである。これが、"近世英国"の到来であった。
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尾野比左夫『バラ戦争の終結』 尾野比左夫『バラ戦争の終結』
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尾野比左夫『バラ戦争期におけるイギリス国際関係の特質』 尾野比左夫『バラ戦争期におけるイギリス国際関係の特質』
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目次

概要

1455年から1485年まで、百年戦争の後のイギリスの王位継承をめぐる内戦。封建領主層が没落し、王権が強化される結果となった。

百年戦争の終結した後のイギリスで、1455年から1485年まで続いた内乱。王位継承をめぐる、ランカスター家とヨーク家の争いで、前者が紅バラ、後者が白バラをそれぞれ家紋にしていたので、「バラ戦争」と言われる。戦争の直接の原因は王位継承問題であったが、それぞれ2派にわかれた封建貴族の私闘というのが実質である。30年にわたり血腥い暗闘が繰り広げられたが、結局、ランカスター家の一族のテューダー家のヘンリが、ヨーク家のリチャード3世を倒し、テューダー朝を開いてヘンリ7世として即位、ヨーク家のエリザベスと結婚することで両家の争いに終止符を打った。百年戦争に続く内乱によって、封建貴族は相打ちとなって没落し、テューダー朝の王権は強大となり、絶対王政を実現する。なお、イギリスでバラ戦争が続いていた同時代の日本では、応仁の乱(1467~77年)が起こっている。


経緯

 バラ戦争は30年にわたる内戦となったが、その大まかな経緯は次のようになる。


・ランカスター朝からヨーク朝へ

 百年戦争終結後間もなく、ランカスター朝のヘンリ6世は精神に異常をきたした。子供が生まれたが王子を認識できないような状態だった。狂った夫と幼い王位継承者の我が子を守らなければならなくなった王妃マーガレットが、国王支持の貴族たちを束ねた。一方、かねてからランカスター家の王位継承に異議を唱えていたヨーク家のリチャードは事を急がねばならぬと考え、1455年10月、セント=オールバンズで国王を襲撃した。その後、一進一退の内戦を繰り広げ、1460年にはヨーク家リチャードが戦死する。その子エドワードは、有力貴族ウォーリク伯の支援を得て逆襲し、61年にロンドンに入り、貴族たちに推戴されて王位につきヨーク朝が成立、エドワード4世となった。敗れたヘンリ6世とマーガレットはスコットランドに逃れた。


・エドワード4世と前王妃マーガレットの戦い

 前国王である夫のヘンリ6世をスコットランドにおいて、フランスに渡ったマーガレットはルイ11世に支援を要請、またエドワード4世と仲違いしたウォーリク伯を味方にして、1570年にイングランドに上陸、虚をつかれたエドワードはブルゴーニュ公シャルルを頼ってネーデルラントに逃れた。マーガレットはヘンリ6世を復位させたが、翌年エドワードがルイ11世と対立していたブルゴーニュ公の援軍を得て戻ってくると、国内の貴族とロンドン市民の支持を受けてヘンリ6世を再び捕らえ、ロンドン塔に幽閉した。フランス内の対立と結びついたヨーク家エドワード4世とランカスター家マーガレットの争いは、再びヨーク家の勝利で終わり、ランカスター家とその勢力はほぼ壊滅した。 ヨーク家の内紛 エドワード4世が1483年に死に長子エドワード5世が継承したが、叔父の護国卿グロスター公リチャードはいきなりエドワードをロンドン塔に幽閉し、さらに殺害して王位を奪った。それがリチャード3世で、シェークスピアの『リチャード3世』の主人公として、暴君として描かれている。最近その遺骨が発見されて話題となっている。


終結

 リチャード3世の王位簒奪と残虐な行いに反発した貴族は、ランカスター家の縁者でブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリが1458年にイングランドに上陸すると、一斉にそれを支持した。ヘンリはウェールズの軍勢などを兵力として、8月にボズワースの戦いでリチャード3世を破り、新たにテューダー朝を開いてヘンリ7世として王位についた。翌年、ヨーク家のエリザベスと正式に結婚し、ここにバラ戦争は終わりを告げた。


与えた影響

 バラ戦争の影響で、家系を絶やした貴族は疲弊・没落し、封建社会は完全に衰退した。一方でヘンリ7世の掲げるテューダー朝政権とは、封建貴族を抑えるために家臣団を解散させ、所領を没収して王領を拡大し、政権を国王に集中させることであった。貨幣統一、度量衡統一、課税強化などによって財政を安定させ、司法面では国王大権を全面的に押し出した裁判所・星室庁(せいしつちょう。ウェストミンスター宮殿の星の間と呼ばれる所。天井に星印がある)を設置して、政敵をねじ伏せていった。このようにしてヘンリ7世は、国王中心のイギリス絶対主義王政の基盤を築いていき、"中世英国"に有終の美を飾り、子ヘンリ8世(位1509-47)の治世によって、絶対主義国家イギリスの王政を完成するのである。これが、"近世英国"の到来であった。


参考文献

尾野比左夫『バラ戦争の終結』

尾野比左夫『バラ戦争期におけるイギリス国際関係の特質』


H.N KK


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