オーストリア継承戦争
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オーストリア継承戦争とは、1740年12月16日から1748年10月18日の間に行われた神聖ローマ帝国及びオーストリア大公国の継承問題を発端としてハプスブルク家の家督継承をめぐって起こったヨーロッパを多く巻き込んだ戦争のことである。 | オーストリア継承戦争とは、1740年12月16日から1748年10月18日の間に行われた神聖ローマ帝国及びオーストリア大公国の継承問題を発端としてハプスブルク家の家督継承をめぐって起こったヨーロッパを多く巻き込んだ戦争のことである。 | ||
- | 背景 | + | ====背景==== |
神聖ローマ皇帝カール6世とエリーザベド・クリスティーネという夫婦がおり、子宝に恵まれず長年悩んでいた。そこに生まれたのがマリアテレジアという長女であった。その後次女を出産したクリスティーネは二度と子宝を授かることはなく、そこでカール6世は長女のマリアテレジアにハプスブルク家を継がせるためプラグマティッシェ・ザンクツィオンという国事勅書を発布しフランスや神聖ローマ内諸国(プロイセン、バイエルン、ザクセン)などにマリアテレジアが家督を継ぐことを認めさせようとした。しかし、この頃のヨーロッパでは王家継承権があるのは男だけというのが暗黙のルールであり、マリアテレジアの夫であるトスカーナ大公、フランツ・シュテファンの即位を要求した。そんな最中、カール6世が狩りをしに行っている時に急に体調を崩し急死。マリアテレジアは23歳で女王として一国と国民すべてを背負うこととなった。しかしルイ15世(フランス宮廷)はこれを絶好の機会としてハプスブルクに攻撃を仕掛け、これをきっかけにオーストリアと周辺ヨーロッパ諸国間での戦争に発展してしまった。 | 神聖ローマ皇帝カール6世とエリーザベド・クリスティーネという夫婦がおり、子宝に恵まれず長年悩んでいた。そこに生まれたのがマリアテレジアという長女であった。その後次女を出産したクリスティーネは二度と子宝を授かることはなく、そこでカール6世は長女のマリアテレジアにハプスブルク家を継がせるためプラグマティッシェ・ザンクツィオンという国事勅書を発布しフランスや神聖ローマ内諸国(プロイセン、バイエルン、ザクセン)などにマリアテレジアが家督を継ぐことを認めさせようとした。しかし、この頃のヨーロッパでは王家継承権があるのは男だけというのが暗黙のルールであり、マリアテレジアの夫であるトスカーナ大公、フランツ・シュテファンの即位を要求した。そんな最中、カール6世が狩りをしに行っている時に急に体調を崩し急死。マリアテレジアは23歳で女王として一国と国民すべてを背負うこととなった。しかしルイ15世(フランス宮廷)はこれを絶好の機会としてハプスブルクに攻撃を仕掛け、これをきっかけにオーストリアと周辺ヨーロッパ諸国間での戦争に発展してしまった。 | ||
主にオーストリアとプロイセンが対立していたがオーストリア側にイギリス、プロイセン側にフランス・スペインが協力していた。この頃、イギリスとフランス間では植民地戦争としてアメリカ新大陸とインドで起こっている最中であった。 | 主にオーストリアとプロイセンが対立していたがオーストリア側にイギリス、プロイセン側にフランス・スペインが協力していた。この頃、イギリスとフランス間では植民地戦争としてアメリカ新大陸とインドで起こっている最中であった。 | ||
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+ | * 第一次シュレージエン戦争 | ||
+ | 1740年から1742年にかけてオーストリアのシュレージエンを巡って起こったプロイセンとオーストリアの戦争である。事の発端としては前述で述べたカール6世が死去したことにより一連の流れがきっかけであり、プロイセン側の王であるフリードリヒ2世が千載一遇の好機として大王とともに2万7千の軍隊でシュレージエンに攻め込んだ。対するオーストリア軍はプロイセン軍を軽視していた点も影響し、軍の兵力が増援を含めても8千と抗戦準備がないままプロイセン軍の侵攻に直面することとなった。その後プロイセンはわずか1年と半年でシュレージエンを獲得し、さらにプロイセンの国力は強くなっていった。 | ||
+ | <br> | ||
+ | * オーストリア・ザクセン戦争 | ||
+ | 1741年、ザクセン選帝候兼ポーランド国王であるアウグスト3世はハプスブルク家の相続権を主張し、ベーメンに侵入したが和平交渉によりすぐに撤退した。 | ||
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+ | * オーストリア・バイエルン戦争 | ||
+ | 1741年、バイエルンの選帝候、カール・アルブレヒトはオーストリアのチロル地方などを占領、1742年には神聖ローマ皇帝として君臨した。この背後ではバイエルンと秘密条約を結んだフランスが動いていた。窮地に立たされたマリアテレジアはハンガリーに応援要請を頼み、オーストリア軍はフランス連合軍を撃退し、バイエルンも奪い返した。 | ||
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+ | * 第二次シュレージエン戦争 | ||
+ | 1744年から1745年にかけて行われた戦争であり、第一次シュレージエン戦争で奪われたシュレージエンを取り戻すために行われたプロイセンとオーストリアの戦争である。結果としてオーストリアは再びプロイセンにシュレージエンの所有を認めることになってしまう。これによってプロイセンはヨーロッパの中で有意な地位を持つことになった。また、この戦争中各国の協力体制は良いとはいえず、生じた諸国間の関係はそのまま7年戦争につながっていくことになる。 | ||
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+ | * フランス・オーストリア戦争 | ||
+ | 1744年にフランスがオーストリア領であるネーデルラント(ベルギー)に侵攻し、オーストリア・イギリス・オランダの連合軍を破った戦争。しかし1748年には撤退している。 | ||
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+ | * オーストリア・スペイン戦争 | ||
+ | 1744年にスペインがスペイン継承戦争にて割譲した北イタリアのミラノ公国を奪還しようとして攻め込んだが、サルデーニャ王国がオーストリア側についてしまったため、この目的は果たされなかった。 | ||
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+ | ====結末==== | ||
+ | これらの戦争は1748年に結ばれたアーヘンの和約によって終わりを迎えた。オーストリアはシュレージエンを主として北イタリアなどの領地を奪われてしまったがなんとか一部を取り戻し、神聖ローマ皇帝位も無事確保した。プロイセンではフリードリヒ2世がシュレージエンを奪い、数々の功績を遺したことから大王と呼ばれるようになった。ヨーロッパを巻き込んだこの戦争はこれで終結したが再び同じ場所で七年戦争が行われることとなった。 | ||
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+ | ====参考文献==== | ||
+ | *<ウィキペディア オーストリア継承戦争> | ||
+ | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89 | ||
+ | *<オーストリア継承戦争まとめ> | ||
+ | http://www.geocities.jp/himaruya/ost2.htm | ||
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+ | <br>*『七年戦争』 吉田成志 文芸社 | ||
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+ | ペンネーム:もちめり |
最新版
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概要
オーストリア継承戦争とは、1740年12月16日から1748年10月18日の間に行われた神聖ローマ帝国及びオーストリア大公国の継承問題を発端としてハプスブルク家の家督継承をめぐって起こったヨーロッパを多く巻き込んだ戦争のことである。
背景
神聖ローマ皇帝カール6世とエリーザベド・クリスティーネという夫婦がおり、子宝に恵まれず長年悩んでいた。そこに生まれたのがマリアテレジアという長女であった。その後次女を出産したクリスティーネは二度と子宝を授かることはなく、そこでカール6世は長女のマリアテレジアにハプスブルク家を継がせるためプラグマティッシェ・ザンクツィオンという国事勅書を発布しフランスや神聖ローマ内諸国(プロイセン、バイエルン、ザクセン)などにマリアテレジアが家督を継ぐことを認めさせようとした。しかし、この頃のヨーロッパでは王家継承権があるのは男だけというのが暗黙のルールであり、マリアテレジアの夫であるトスカーナ大公、フランツ・シュテファンの即位を要求した。そんな最中、カール6世が狩りをしに行っている時に急に体調を崩し急死。マリアテレジアは23歳で女王として一国と国民すべてを背負うこととなった。しかしルイ15世(フランス宮廷)はこれを絶好の機会としてハプスブルクに攻撃を仕掛け、これをきっかけにオーストリアと周辺ヨーロッパ諸国間での戦争に発展してしまった。 主にオーストリアとプロイセンが対立していたがオーストリア側にイギリス、プロイセン側にフランス・スペインが協力していた。この頃、イギリスとフランス間では植民地戦争としてアメリカ新大陸とインドで起こっている最中であった。
経過
- 第一次シュレージエン戦争
1740年から1742年にかけてオーストリアのシュレージエンを巡って起こったプロイセンとオーストリアの戦争である。事の発端としては前述で述べたカール6世が死去したことにより一連の流れがきっかけであり、プロイセン側の王であるフリードリヒ2世が千載一遇の好機として大王とともに2万7千の軍隊でシュレージエンに攻め込んだ。対するオーストリア軍はプロイセン軍を軽視していた点も影響し、軍の兵力が増援を含めても8千と抗戦準備がないままプロイセン軍の侵攻に直面することとなった。その後プロイセンはわずか1年と半年でシュレージエンを獲得し、さらにプロイセンの国力は強くなっていった。
- オーストリア・ザクセン戦争
1741年、ザクセン選帝候兼ポーランド国王であるアウグスト3世はハプスブルク家の相続権を主張し、ベーメンに侵入したが和平交渉によりすぐに撤退した。
- オーストリア・バイエルン戦争
1741年、バイエルンの選帝候、カール・アルブレヒトはオーストリアのチロル地方などを占領、1742年には神聖ローマ皇帝として君臨した。この背後ではバイエルンと秘密条約を結んだフランスが動いていた。窮地に立たされたマリアテレジアはハンガリーに応援要請を頼み、オーストリア軍はフランス連合軍を撃退し、バイエルンも奪い返した。
- 第二次シュレージエン戦争
1744年から1745年にかけて行われた戦争であり、第一次シュレージエン戦争で奪われたシュレージエンを取り戻すために行われたプロイセンとオーストリアの戦争である。結果としてオーストリアは再びプロイセンにシュレージエンの所有を認めることになってしまう。これによってプロイセンはヨーロッパの中で有意な地位を持つことになった。また、この戦争中各国の協力体制は良いとはいえず、生じた諸国間の関係はそのまま7年戦争につながっていくことになる。
- フランス・オーストリア戦争
1744年にフランスがオーストリア領であるネーデルラント(ベルギー)に侵攻し、オーストリア・イギリス・オランダの連合軍を破った戦争。しかし1748年には撤退している。
- オーストリア・スペイン戦争
1744年にスペインがスペイン継承戦争にて割譲した北イタリアのミラノ公国を奪還しようとして攻め込んだが、サルデーニャ王国がオーストリア側についてしまったため、この目的は果たされなかった。
結末
これらの戦争は1748年に結ばれたアーヘンの和約によって終わりを迎えた。オーストリアはシュレージエンを主として北イタリアなどの領地を奪われてしまったがなんとか一部を取り戻し、神聖ローマ皇帝位も無事確保した。プロイセンではフリードリヒ2世がシュレージエンを奪い、数々の功績を遺したことから大王と呼ばれるようになった。ヨーロッパを巻き込んだこの戦争はこれで終結したが再び同じ場所で七年戦争が行われることとなった。
参考文献
- <ウィキペディア オーストリア継承戦争>
- <オーストリア継承戦争まとめ>
http://www.geocities.jp/himaruya/ost2.htm
*『七年戦争』 吉田成志 文芸社
ペンネーム:もちめり