ベルリンの壁崩壊2
出典: Jinkawiki
2015年8月5日 (水) 14:38の版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) (→ベルリンの壁崩壊) ← 前の差分へ |
最新版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) (→参考文献) |
||
1 行 | 1 行 | ||
=ベルリンの壁= | =ベルリンの壁= | ||
+ | |||
+ | 第二次世界大戦においての敗戦国であるドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国にそれぞれの地域を占領された。 | ||
+ | ソ連はベルリンの東側、残りの国々は西側を占領し、首都であったベルリンにドイツを4カ国で共同統治する機関を置くことになった。 | ||
+ | しかし、これら4カ国の内ソ連のみが社会主義で、その他の国は資本主義であった為、対立するようになり、その結果として本来は一つの都市であるベルリンが、西ベルリン・東ベルリンと呼ばれるようになった。 | ||
+ | その後、2つに分かれてしまったベルリンと同じ様に、ドイツという国自体も分割し、西ドイツを資本主義であるアメリカ・イギリス・フランス3カ国が占領し、東ドイツを社会主義であるソ連が占領していた。 | ||
+ | |||
+ | ベルリンは国が真っ二つに分かれたというより、西ベルリンは東ドイツの中に存在し周囲は社会主義側に囲まれてた。つまり、ベルリンの壁は西ベルリンをぐるっと155km程囲んでいたもので、東西ドイツの国境だったわけではない。要は東ドイツの中にぽつんと壁に囲まれた西ベルリンが小島のようにあった。 | ||
+ | |||
+ | =壁はどうやってできたのか= | ||
+ | |||
+ | |||
+ | 社会主義国となった東ドイツでは、西ドイツに比べて自由がなく、自由な西ドイツへと亡命する人が後を絶たなくなった。 | ||
+ | そうなると東ドイツでは労働者が大幅に減り色々と困る。そこで、何とか東ドイツの人達が西ドイツに亡命するのを食い止めるしかないと考え、東ドイツが1961年8月13日の午前0時から壁作りを開始した。 | ||
+ | |||
+ | 当然一夜にして壁が出来る筈もなく、最初は有刺鉄線しかなかった。8月13日の朝、市民は一体何が起こったかわからず大騒ぎで、鉄線の隙間から逃げる人もいた。その混乱した過程で、家族でありながら、東西に分かれてしまう気の毒な状況も多かった。8月13日中に、杭が打ち込まれ、バリケードが作られ、豪も掘られて、そしてコンクリートブロックを積んだ壁を作った。 | ||
+ | |||
+ | しかし、所詮壁一枚では兵士がいくら見張っていても乗り越えようとする人が後を絶たない為、東ドイツは壁を1980年までに4回も強化した。一番強化された所では高さ3.6m程で、奥行きは1.2m程、深さ地下2m程もあった。 | ||
+ | 最初は1つだったベルリンの壁も、この強化策によって、元々作った壁から5~数十メートルの間隔を空け、もう一つ新規に壁を作った。つまりベルリンの壁は2枚あり、その間に監視塔や軍用犬に兵士の見張り、一般市民が立ち入り出来ないように無人地帯とし、亡命できないような措置をとった。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | =壁の崩壊= | ||
+ | |||
+ | 東の政府は信頼できないし西とは経済格差が開くばかり、民主化を求める東ドイツ国民の不満が爆発した。そして1989年には大規模なデモがあちこちで行われ歯止めがきかなくなり、東ドイツは混乱してしまう。当時の東ドイツの指導者ホーネッカーは仕事をあまりこなさなかった。そのため東ドイツ政府は西ドイツへ移動しやすくするように、出国規制緩和を提案。 | ||
+ | 11月10日からベルリンの壁をのぞき国境通過点から出国のビザが大幅に緩和されるというものである。 | ||
+ | とするも政府の状況が悪かったためよく審議もされず、情報もうまく政府内に伝わらず。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | そのため1989年11月9日、記者会見で発表係をする政府のシャボウスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、今すぐすべての国境通過点から出国がしやすくなる」と勘違い。それを聞いた大勢の両ドイツ国民たちはいっせいにベルリンの壁へと向かった。勘違いではあるが数に圧倒され結局ベルリンの壁はその効力を失い、崩壊に至った。 | ||
+ | |||
+ | =参考文献= | ||
+ | |||
+ | http://allabout.co.jp/gm/gc/446558/ | ||
+ | |||
+ | http://southosaka-entre.com/karappo/?p=1938 |
最新版
目次 |
ベルリンの壁
第二次世界大戦においての敗戦国であるドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国にそれぞれの地域を占領された。 ソ連はベルリンの東側、残りの国々は西側を占領し、首都であったベルリンにドイツを4カ国で共同統治する機関を置くことになった。 しかし、これら4カ国の内ソ連のみが社会主義で、その他の国は資本主義であった為、対立するようになり、その結果として本来は一つの都市であるベルリンが、西ベルリン・東ベルリンと呼ばれるようになった。 その後、2つに分かれてしまったベルリンと同じ様に、ドイツという国自体も分割し、西ドイツを資本主義であるアメリカ・イギリス・フランス3カ国が占領し、東ドイツを社会主義であるソ連が占領していた。
ベルリンは国が真っ二つに分かれたというより、西ベルリンは東ドイツの中に存在し周囲は社会主義側に囲まれてた。つまり、ベルリンの壁は西ベルリンをぐるっと155km程囲んでいたもので、東西ドイツの国境だったわけではない。要は東ドイツの中にぽつんと壁に囲まれた西ベルリンが小島のようにあった。
壁はどうやってできたのか
社会主義国となった東ドイツでは、西ドイツに比べて自由がなく、自由な西ドイツへと亡命する人が後を絶たなくなった。 そうなると東ドイツでは労働者が大幅に減り色々と困る。そこで、何とか東ドイツの人達が西ドイツに亡命するのを食い止めるしかないと考え、東ドイツが1961年8月13日の午前0時から壁作りを開始した。
当然一夜にして壁が出来る筈もなく、最初は有刺鉄線しかなかった。8月13日の朝、市民は一体何が起こったかわからず大騒ぎで、鉄線の隙間から逃げる人もいた。その混乱した過程で、家族でありながら、東西に分かれてしまう気の毒な状況も多かった。8月13日中に、杭が打ち込まれ、バリケードが作られ、豪も掘られて、そしてコンクリートブロックを積んだ壁を作った。
しかし、所詮壁一枚では兵士がいくら見張っていても乗り越えようとする人が後を絶たない為、東ドイツは壁を1980年までに4回も強化した。一番強化された所では高さ3.6m程で、奥行きは1.2m程、深さ地下2m程もあった。 最初は1つだったベルリンの壁も、この強化策によって、元々作った壁から5~数十メートルの間隔を空け、もう一つ新規に壁を作った。つまりベルリンの壁は2枚あり、その間に監視塔や軍用犬に兵士の見張り、一般市民が立ち入り出来ないように無人地帯とし、亡命できないような措置をとった。
壁の崩壊
東の政府は信頼できないし西とは経済格差が開くばかり、民主化を求める東ドイツ国民の不満が爆発した。そして1989年には大規模なデモがあちこちで行われ歯止めがきかなくなり、東ドイツは混乱してしまう。当時の東ドイツの指導者ホーネッカーは仕事をあまりこなさなかった。そのため東ドイツ政府は西ドイツへ移動しやすくするように、出国規制緩和を提案。 11月10日からベルリンの壁をのぞき国境通過点から出国のビザが大幅に緩和されるというものである。 とするも政府の状況が悪かったためよく審議もされず、情報もうまく政府内に伝わらず。
そのため1989年11月9日、記者会見で発表係をする政府のシャボウスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、今すぐすべての国境通過点から出国がしやすくなる」と勘違い。それを聞いた大勢の両ドイツ国民たちはいっせいにベルリンの壁へと向かった。勘違いではあるが数に圧倒され結局ベルリンの壁はその効力を失い、崩壊に至った。