日独伊三国同盟
出典: Jinkawiki
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概要
日独伊三国同盟とは、1940年(昭和15年)9月27日に結ばれた、ドイツ・日本・イタリア間での同盟関係のことである。第二次世界大戦でも枢軸国の中心となっている。この同盟を結んだことによって日本はドイツと対立していたイギリスやオランダ、アメリカとの関係も悪化することになった。
経緯
日独伊三国同盟の目的として主に対ソ連に対するものが大きかったが独ソ不可侵条約の締結によってこれは頓挫してしまった。また、この同盟によりメリットとして日本はアメリカと対立していたためドイツと手を結ぶことでアメリカを牽制し、日中戦争を有意に進めようとした。またドイツ側としてはドイツ拡大のためにソ連を倒さなくてはいけないと考えておりその為日本と手を結ぶことによってソ連の軍力を二手に分かれさせられるため有意に事が進むと考えていた。イタリア側はというと、この頃のイタリアはエチオピア侵攻によって国際連盟を脱退するといったように孤立を極めていたため、ドイツと仲を深めていった。1936年のスペイン内戦でもフランシスコ・フランコを支援しベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。これら三国の利害関係が一致したためこの同盟が結ばれた。
締結
1940年にフランスが敗北したことによりドイツがますます有意な立場になった。これに日本はドイツに頼るようになったが、第二次世界大戦中イタリアがまず無条件降伏した。これにより戦いは厳しいものになるが、まだドイツと日本を主力に戦っていた。そんな最中ドイツが降伏したことによって日本は窮地に追い込まれてしまう。そして1940年9月、ベルリンにおいて日独伊三国同盟は締結されてしまった。
主要条項
この同盟における主要条項は「ドイツとイタリアを日本は尊重し、指導的地位を認める」、「ドイツとイタリアは日本を大東亜における新秩序建設に力を化し、指導的地位を認め、尊重する」、「日本はイタリアとドイツの二国に協力することを約束し、三国間において戦争中援助し合う」などの内容であった。
参考文献
<ウィキペディア 日独伊三国同盟>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
<世界史の窓 日独伊三国同盟>
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-052.html
『日独伊三国同盟の起源 イタリア・日本から見た枢軸外交』 石田憲 講談社
ペンネーム:もちめり